【番外編4】私の10代 アンダーグラウンド 音楽紀行

*大人の事情で某雑誌に掲載されなくなりましたので、ここに貼り付けますー(文責:坂口孝則)

【番外編3】
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【番外編2】
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【番外編】
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【第5回目】
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【第4回目】
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【第3回目】
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【第2回目】
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【第1回目】
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・誰も語らない記憶の断片

先週、ある方と話していたときに、急に思い出したことがある。

ぼくが17歳か、18歳のころだ。ライブハウスの受付あたりで、たむろって演奏を待っていたことがあった。知人たちと適当な話をしていた。高校生だから、たいした話をしていたわけではない。

そのなかに、もはや名前も忘れたのだが、同じ年齢の女性がいた。その女性はぼくに「こっちに来て」といわれて、二人きりになった。そして、いきなり「お父さんが死んじゃった」といった。「え」というぼくに、彼女は「それだけ」といった。

ぼくには、なぜかその時間が永遠のように感じられた。

話は発展するわけではなく、そのままぼくたち二人は、もとの集まりに戻っていった。このエピソードが、実は意外な展開をもたらすと書きたい衝動に駆られてしまう。しかし、現実には、なんらドラマチックな広がりがない。彼女はなぜかぼくだけに、「お父さんが死んじゃった」といった。

それだけだ。ぼくは、その女性の名前すら忘れてしまっている。その父親が誰なのかも知らない。

もし、その父親が音楽の重要人物だったり、ぼくの人生に大きな影響を与える人物だったりすれば、何か大げさに書くこともできるかもしれない。

ぼくは書籍を36冊も書いていて、どこか、論理的とかストーリーといったものを、あまりに意識せざるをえない世界で生きてきた。ある出来事があって、それが結果につながっていると、つい、いつもながら書きたくなる。

彼女の告白がぼくの人生で稀有なつながりを生んだ、とかだ。

しかし、実際はそんなことはない。毎日のように出会っている現実は、ほとんど独立で、かつ不思議なまま存在している。無意味なまま人生のなかで漂っている。本来は、その、非論理的的な世界をありのままに描くべきではないか、という感覚にとらわれる。

彼女はぼくだけに「お父さんが死んじゃった」と伝えた意味はなんだったのだろう。ぼくだったら、何か特別なリアクションをしてくれる、と思ったはずはない。いまも、そのときも、単なる男で、気の利いた言葉を一言もいえないのだ。

ただただ、事実として、そこに横たわっている。

・大学時代の思い出

これまた、たいしたことのない、しかし、ぼくが覚えている話だ。

大学に入ったときに、音楽的趣味が少しは合ったのか、ある同級生の下宿先にお邪魔した。そのとき、何を話したのかはもう記憶にない。しかし、いろいろなCDをかけあいながら、音楽の話をしたんだと思う。

そのときに、ぼくは何かを買いに、その外に出た。そうすると、ある年長の男性がいて、「○○はここにいるのか」と訊いてきた。どうも、肉親のひとで、「電話をしても出ないし、大学にも行っていないようで、叱りに来た」といった。

しばらく、大声での言い争いが聞こえた。

ぼくはコンビニに行って、戻ったら、声は消えており、さらに、その年長男性もいなかった。部屋に入った。同級生は、なんら変わらない調子で、音楽議論の続きを話してくれた。

これまたぼくは、何か特別な教訓を引き出したい衝動に駆られる。そのときの経験から、自分の人生に大きな影響があったとかだ。しかし、実際はそんなことはない。ただただ、そのような事件があった。

それだけだ。意味はない。しかし、ぼくは何か特別のこととして覚えている。

・断片としてしか語れないことについて

意味病ともいうのだろうか。

ぼくは、高校や大学のことを思い出すとき、どうしても、この二つを記憶から引き出してしまう。しかし、この二つのエピソードは、何らかの事象につながるわけではなく、どうしても、引き合いに出すことができない。

人間は、なんらかの意味や理由があって、なんらかの結果を引き出すと信じている。これが意味病だ。

だから、単に存在したエピソードを語る場所はなくなってしまう。

しかし、この二つのエピソードを語らない青春期は、なぜだか死文のように感じられる。なぜぼくたちは、「こういうことがあった」と無意味に書けないのだろうか。

断片が断片のまま存在している。

器用な書き手なら、適当に料理をして、なんらかの意味に収めるだろう。でも、ぼくにはそれができない。しかし、実際の世の中は、ただただ、意味と無意味が錯綜しながら、ただ”そこに何かがある”空間ではないだろうか。

この無意味さをぼくは、この先に、ちゃんとした形で書けるようになりたいと思う。世の中は複雑系で、人生は断片の集まりとして、ただただ存在している。

 

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