GASTUNKと人生について

2021年6月19日に、新代田FeverにGASTUNKライブに行ってきた。33年ぶりのニューアルバムを記念したライブだった。残念ながら無歓声ライブだったが、会場は満員だった。

もちろん名曲「Dead Song」もいいし「Geronimo」もいいけれど、私は新曲の良さに刮目した。具体的にいえば、「Perfect Tomorrow」(←会場で震えた)、「Seventh Heavens Door」などは、会場で聞いてちょっと戦慄するほどだった。

きっと、会場に居た誰もが--失礼ながら私を含めて若いという形容詞にはふさわしくないように思えたが--自らの人生を重ねていたと思う。「自分がGASTUNKを初めて聴いたのは何歳のころだっけ?」「そこから自分は何をしていたんだっけ?」といった自問。

GASTUNKは聴衆の過去をフラッシュバックのように呼び戻す。ライブ会場で身体と楽曲が溶け合う。そして、GASTUNKの演奏からは、音と演者の間で揺れ動いている悲しさが聴こえる。いろいろあったけれ、そのすべてが自分たちの音楽なのだ--という確信。若さだけを肯定しない点に、逆にその美しさが表れる。

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これまですぐれたバンドが世から消えていった。あれだけ熱狂したバンドがいなくなっても、社会は何事もなく進んでいる。飽きっぽい世界は、次の話題を求めてさまよう。そして、しばらくすると、悲しみの残響すらもなくなってしまう。

話を当日(2021年6月19日)の会場に戻す。

「Summer Rain」のイントロが流れてきた。永遠に向かって進みながら、これからの時間がないような圧迫感に襲われる。アーティストは身を削らなければ真正面から向かい合うことはできない。通常の人生ならば妥協していたものも、超越しながら一瞬の刹那に賭していく。その覚悟にも似た音圧が私を覆った。

きっとパンクもメタルもハードコアも、もっと大きくいえばロックも論理的ではなく、もっと原始的な衝動に支えられている。ある圧倒的な経験は、いつの間にか人生を変化させる熱情を生んでいる。

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あれ、そういえば前回にGASTUNKを見たのは氣志團が出たときだっけ? あれはもう3年も前なのか? それだけはどうしても思い出せない。

思い出はきっとあきらめも含んでいる。それは、過去に戻ることはできない、というあきらめ。しかし同時にそれは過去との決別も意味し、さらにまだ見ぬ将来への希望も感じさせてくれる。

「Perfect Tomorrow」--。

ロックとは音楽のジャンルではなく、生き様のことだが、時代を刺す心性であり、普通から外れてもなお社会と対峙する疾駆であると、私はGASTUNKのライブを通じて知ることになった。

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