【第3回目】私の10代 アンダーグラウンド 音楽紀行
*大人の事情で某雑誌に掲載されなくなりましたので、ここに貼り付けますー(文責:坂口孝則)
・ノイズから教えてもらったこと
高校1年生のころ。友だちのYくんがぼくの家にやってきた。
「なにか録音しようか」
「楽器は弾けないよ」
「叫ぶだけでいいんじゃない?」
こんな、ふとしたきっかけだった。高校生だからなんでもできたんだろう。そのテープを、Kさんにもっていったら、「これ送ろう」という話になった。「どこですか?」「殺害塩化ビニールに決まっているだろ」「まじかよ」
殺害塩化ビニールは、当時、雑誌「DOLL」に狂った宣伝を出していて、ぼくもファンだった。ジャケットワークも最高で、蛭子能収さんからはじまって、ぼくは系譜から『ガロ』にいって、丸尾末広さんや、天井桟敷にいたったのも、原点はここからだ。
すると、もっと驚くことがあった。殺害塩化ビニールの社長から、直筆の手紙が届いた。「オムニバスに入れてやる」というものだった。Kさんに知らせ、「ただちに、返事を書こう」と、手紙を書かぬまま郵便局に行った。手紙を書く時間がもったいなくて、郵便局で返事を書いて出したのだ。佐賀県庁前の時間外郵便局に行ったと思う。
Yくんに、Kくん、そしてTくんが加わって、いろいろなことをした。たしか、習字にひたすら放送禁止用語を書くパフォーマンスとか、将棋をひたすら指す、みたいなやつだ。ジョン・ケージのはるか先をいっていただろう。
社会人になってからこのころのビデオを見たら、あまりに先鋭的で笑ってしまったほどだ。
当時は、マゾンナ、ゲロゲリゲゲ、ハナタラシなんかの音源を聴いて、「どうやったらこんな雑音が生まれるんだろう」とか話をして、「ギターにエフェクターかけたらいいんじゃない」とか相談した。それでギターを買ってきて、ノコギリで切断して、弦をグルグル巻きにして、ディストーションを5つ重ねて、足で踏みつけたら、たしかに異常な音がした。
<マゾンナ>
<ハナタラシ>
ノイズから教えてもらったのは、きっと、「なんでもやっていいんだ」という皮相的なものではない。「過剰な音に表現の発露を見出すしかない人間がいる」という事実だった。ノイズは、これまでの常識であった音と音の重なりすらも否定したうえで、それが音楽といえるのかどうかの限界に挑み続ける革命である。かつ、それは 音楽の定義を変えようとする試みでもある。
・ノイズの無思想性
ノイズはしかし、このような思想を拒絶する。さらに拒絶してほしい。音楽がつねに政治的に利用されてきたり、大衆を鼓舞するものとして使われたりした。そして、音楽の歌詞は、つねに文脈を無視して切り取られた。さらにアーティストも、時代の無意識を抽出してしまう。
それにたいしてノイズはつねにメッセージ性とは無縁で、その無関係さゆえに、音の過剰さだけが残る。
<SOB階段>
<スラップ・ハッピーハンフリー>
たとえば、ぼくは意外にDillinger Escape Planが好きなんだけど、あの度を越しためちゃくちゃさがノイズに近いものがあると思う。
<Dillinger Escape Plan>
・表現の自由さ……を超えて
ところで、高校生のころ、大阪に旅行にいって道頓堀にさしかかったとき。橋の上で、生きたタコを使って、ギターを弾くパフォーマンスをしているひとがいた。誰もが、キ○ガイとして通り過ぎていたところ、ぼくだけはそこから動けなくなった。
タコの墨まみれで、なんの意味もない音を奏で続けるのだ。普通ではない。しかし、ぼくはなぜか、ふいに胸を衝かれてしまった。
ほんとうは、ここから、なにか教訓的なものを書きたくなる。「ぼくはその表現の自由さに触れ、人生を変えたのだった」とか「音階を弾く西洋文化に抗っていた」とかだ。しかし、ぼくは、もっと原始的な衝動を感じていた。
なぜライブハウスが感動を与えるか。それは、いまだにうまく文字にできない。YouTubeでも一緒でしょ、といわれたら、うまく反論もできない。ただ、なぜか空間をともにすると、そのアーティストの業のようなものに圧倒されるのだ。そして、人生の醍醐味とは、何回、圧倒されるかにあるのではないだろうか。
まさか、あのときの演者も、見ていた人間の一人が、こんなに記憶に刻んでいるとは思ってもいないだろう。生きてもいないかもしれない。
<スーパージャンキーモンキー>
<SWITCH STYLE>
<デスファイル>
なぜあんなに美しい時代があったのだろうか。あれはきっと奇跡だったのかもしれない。誰にとっても、10代の季節は奇跡のように。
ぼくは、そこからも、数々のバンドと出会い、さらに人生を変えていくようになる。きっと悪い方に。