【第2回目】私の10代 アンダーグラウンド 音楽紀行

*大人の事情で某雑誌に掲載されなくなりましたので、ここに貼り付けますー(文責:坂口孝則)

・ライブハウスについて

ぼくはライブハウスに行くようになったのが、高校1年生のころだった。もちろん、ライブではなく、コンサートというべきものには多く行ったことがあった。しかし、ライブハウスの「危うさ」とはまったく違う。

近づくとタバコの煙が異常なほど漂っていたこと。誰もが演奏と女のことしか話していなかったこと。突然、殴り合いがはじまったこと。十代のくせに誰もが酔っ払っていたこと。リハーサルにこっそりと忍び込んだこと。

幕が開ける前の興奮。幕が閉じた後の静寂。そして、誰もが明日の学校か仕事の前に、そこを立ち去る。おそらく観客にはいろんなひとがいたに違いない。

人生とは、まさにあのことではなかったか。

貧乏人もいれば、金持ちもいただろう。学生もフリーターも、社会人もいた。しかし、演奏の前では、誰もが平等だった。大袈裟にいえば、文化の前にはだれもが等価だった。私はライブハウスのなかに、両親が教えてくれなかった、人生の危うさと、自由と、そしてすべての可能性を感じた。

・高校生のころ

そして、もう一つの発見は、すぐれたバンドが身近にいることだった。洋物メタルばかりを聴いていれば、どこか遠くにいるように感じる。しかし、彼らだって地元では、そこらの兄ちゃんたちなのだ。私の佐賀県にも、福岡県にも、たくさんの優れたバンドがいた。

ちなみに私は福岡のカメレオンレコードまで、片道2時間をかけて行っていたのだった。YouTubeで一瞬で音源を確認できる時代とはえらい違い。その時代の動画ではないが、とくにぼくが心惹かれたのは、こういったひとたちだ。

<グラインドサアフ>

<SAVAGE GREED>

ぼくは、このあとにマゾンナとインキャパシタンツ、メルツバウを通して、ノイズに傾倒していくことになる。王道じゃなく、ちょっとひねったところを狙っていく。そもそもアンダーグラウンドというくらいだから、メジャーではない。そのマイナーな世界でも、変化球を投げ続けていくこと。

どうも、これ以降の私は同じことをやっているように感じる。

・アンダーグラウンドミュージックの思想的観点

ちなみに、メタルでは人差し指と小指を立てる。

あれは、横から見たときに、三つの数字「6」を作っている。つまり、「666」=キリスト教で「悪魔」を意味する。悪魔礼拝。そして、きわめてメッセージ性がある。

なお、メタルというのは、金属を意味する。金属音とは、すなわち労働者階級が働く工場を暗喩する。ブラック・サバスのトニー・アイオミは金属加工工場で働いているときに間違って指を切断した。メタルは、ブルジョワジーたちが世界に反抗するための音楽だった。

ジューダス・プリーストの「ステンドグラス」は社会の階級や階層が暗喩として歌われている。

POPSは誰かとの恋愛を歌い、演歌は別れた旦那との慕情を歌う。おなじアンダーグラウンドシーンでも、ロックやメタルはドロップアウトした労働者のものであったのにたいして、ヒップホップはそもそも世の中から外れたものたちが成り上がるためにものだった。

だからアンダーグラウンドシーンのロックやメタルは成功した瞬間に自己矛盾にいたる。しかしヒップホップは成功に矛盾がない。つまり、ロックやメタルは誕生のときから、つねに自らに突き刺さる刺で自らの身体をすり減らしながら走り抜ける運命をもっている(例外は、ハイスタなどが作り上げた、90年代後半のAIR JAMによる全国的な大ムーブメントではないだろうか。しかし、近年に発表されたドキュメンタリー映画によると、メンバーの誰もが鬱状態になっていたようだ)。

・ラウドミュージック

メタルやハードコアは、つねに身体性への回帰を要求する。観客とアーティストとの乖離は、クラシック音楽の「演奏」と「聴衆」の二項で理解されるものだが、くしくも英国で生まれたヘビーメタルはアーティストと観客の境界を融解した。

なぜライブハウスは楽しいのか。それは、演者と客の境目がなく、文字通り「参加」できるからだ。これは皮相的な意味ではない。演奏に参加できる、という意味になる。アーティストは楽器から音を出しているように見えながら、実際には観客の反応から大きな影響を受ける。これは楽器の演奏がうまくいく、ミスする、というレベルの話ではない。より霊的なレベルでの違いがもたらされる。

モッシュとダイブ、さらには全力での叫びを要求するラウドミュージックにおいては、そういった身体性が重要だ。同時に、身体的な衝動を呼び覚ますため、200年前に生まれた音楽古典理論を果敢に破戒するにいたった。

不協和音、ブラストビート、音階のないボイス、インプロ、無展開……。これらは偶然に生まれたのかもしれないが、文化闘争にほかならなかった。メタルは絶望を歌う。しかし、絶望を前提としたフーコー的というよりも、マルクス的といえる。権威の作り上げた文化に対抗して、労働階級が衝動と激情による革命を起こす。フーコー『監獄の誕生』というよりもエンゲルス『共産主義宣言』的。

しかし、労働者が夢見た革命は、はかなくも、文字通り夢と終わる。ああ、なるほど、メタルミュージシャンがメジャーになるとともに、POPS側の巨大な「大人の事情」に巻き込まれてしまうように。それでも、終わるとわかりつつ、メタルミュージシャンは演奏を続けるのだ。

・素晴らしきバンドたち

たぶん、そんなことを考えながらライブハウスに行っていたやつはいなかったかもしれない。私も、ずっと考えているわけではない。あのころ、ぼくの前では、考える必要のないくらい素晴らしきバンドがあふれていたのだ。

*いずれも当時の動画ではない

<ヘルチャイルド>

<トースト>

<ライズフロムザデッド>

<WRENCH>

<ガーリックボーイズ>*祝、サブスク解禁

<コラプテッド>

<DIFILED>

そして……。

<グラビー>

ぼくはたまたま佐賀県だったので、関西シーンとか、関東シーンとかを知らずに育った。なお、上記のバンドを聴いているあいだも、Kreatorだとか、メコンデルタ、クイーンズライチなどといったバンドもよく聴いていた。ごった煮。そして、節操の無さ。これをずっと続けている。サザンオールスターズとデスメタルは私のなかで等しい。これがタコツボに陥らない方法だと私は思う。

ところで、こんなバンド群をよく聴いていたぼくだったが、さらにいろいろな変化が待っていた。

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