文章をものすごく感傷的に書く方法(坂口孝則)

・感傷的文章入門

突然だが、こんど文章術の本を出す。私は、調達・購買関連の著者だったはずだ。しかし、そんな人間が文章術の本を出す。良いのだろうか。良いのだろう、きっと。編集者いわく、「ビジネス系の著者のなかで、ジャンルによる書き分けができる人間」だそうだ、私は。

私の文章はときに「感傷的すぎる」「わざとらしすぎる」といわれる。そうかもしれない。たとえば、こういう風景があったとしよう。

「営業マンがバイヤーのもとに打ち合わせにやってきた。そしたら競合サプライヤに負けたので、受注できなかった。肩を落としてクルマで帰っていった」とかね。なんでもいい。

こういう風景をえぐるとき、私はどうしても、感傷的に書きたい衝動に駆られる。たとえば、私が前述の風景をおもいっきり感傷的に書いてみよう。

「営業マンが私の隣を通り過ぎるとき、落胆と憂鬱がまるで臭いを放つように私の鼻をかすめた。彼は、新規案件を失注し、失意のなか帰社する道程にいた。私は、彼との打ち合わせで、その残念な結果を伝える役目にあった。仕事は他企業で決定していた。彼は駐車場にはいると、うつろに額をまどに寄せ、そこから外を見た。私はその視線の先をたどったが、そこには何もなかった。彼を乗せたクルマは、悲痛な叫びを響かせて私を通り過ぎた。見えた彼の顔にははっきりと苦痛の文字が浮かんでいた。彼の瞳は、たしかに陰をまとい、薄く光っていたのだ。彼は、何を考え、その先に何を見つめていたのだろう」

とかね。まあ、視点は私になっているけれど、書こうと思えば、これくらい書けるという意味。それにしても、笑ってくれていたら幸いなのだけれど、こう書くとなんだかウザったい。だから、「感傷的すぎる」「わざとらしすぎる」といわれるのだろうね。

あるいは、こんな文章があったとしよう。

「知人がいてさ、ナンパが得意なんだよね。でも、たまに失敗して落ち込んでやがるの」

さあ、これも感傷的に書く。

「私の知人には趣味がある。女である。それも道端で拾ってくる。しかし、ときに女の微笑が一つも落ちていないことがある。彼は漂流者である。ずっと途切れることなく、この不意と闘っている。彼は莫大な時間と費用をかけても、すべて徒労に終わることもある。男が女に声をかけるとき、その結果によって男は弱く、病む。彼は偶然と対峙せねばならないのだ。彼はときとして私にひどく絶望の刹那を感じさせる。私はその目を直視していられない。きっとそこには、敗れた者の黄昏が発見されるはずであった」

うむ、やりすぎかもしれない。

さて、これをどうやって書くかというと、単純な方法がある。感傷的な文章を読む機会があったら、それを音読すればいい。まじかよ。まじである。音読したら、いつの間にか自分のものになる。ほんとうだってば。簡単でしょう。私のスマホにはいくつもの「模範感傷的文章」があり、それが自分の備蓄となっている。かといって、できあがった文章は盗作ではない(そこまで完璧に記憶はできず、でもそれっぽい文章となる)。これで著作権の侵害にもならず、かつ高尚な文章講座も不要な、「名文」(あくまでカッコつき)ができあがる。

最後にこれだ。

「いやあ、昨日、飲み過ぎちゃって、大変だったなあ」

これも感傷的に書いてみよう。

「昨日の夜。私は駅のホームに座って、立ち上がれない体を押さえながら、行き交う電車を見ていた。それまでに呑んだビールの泡が体中に侵食しているのがわかった。腸が何かと格闘しながら、黄色や白のゆらめきを私の体内にやどしていた。私は酔いのせいか動けず、佇んでいたのだが、私にそこまで泥酔させるものは何か、ずっとわからずにいた。ただ、飲み過ぎまいと誓いながら、何度も憂き目にあう自分自身を、ひたすら思いつめていた。私は酒に頼るしかない哀惜を、どう表現したらよいだろうか。ホームに電車がやってきて、そのまま時間通りに消え去る。ほんとうに哀しい音が私のなかにこだました」

これまたひでえ、とってつけた文章だが、まずまずか。

・芸としてはいいけれど、やりすぎに注意

とはいえ、最後に使用上の注意を。やりすぎは禁物。東野圭吾さんの人気は、感情を廃した文章にあると私は思う。たとえば、「白夜行」なんてのは、事実だけを書いているのに、読者が猛烈に感動する傑作だ。くわえて、最近の人気作家は感情ではなく、事実を羅列するパターンが多いと思う。おそらく、感情や感傷などを払い去り、事実のみを知りたい読者にマッチしているんだろう。

私は東野圭吾さんのスタイルに賛成している。できれば(私を含めた)一般のひとたちは、感情ではなく事実だけを書くほうが一般的には良い文章になる。これは覚えておいてよいだろう。つまり、「悲しい」と書くのではなく、悲しいと思わせる事実を重ねるのだ。そう意識していないと、上記のような私の文章みたいに「やり過ぎ感ただよう」感じになってしまう(芸の一つとして笑ってほしいが)。

とくにプロの文章家以外が感情的な文章を書こうとすると、相当な慣れがないと「恥ずかしい」ものとなる。「至高の名キャッチコピー集(メンズナックル・ストリートスナップ編)」くらい爆笑できればいいけれど、素人は手を出さないほうが無難だ。

そんだもんで、文章術の一つとしてご紹介はしたものの、あくまでやりすぎない程度に。

<了>

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