6章-11 モチベーションゼロの仕事術
(4)自分にはできない、わからない、と言わない
そして、やる気やモチベーションと無縁で仕事をする技術の最後に、これをあげたい。社内でも社外でもいいので、誰かの意見を聞いたときに、「抽象的であること」と「難しいこと」を理由に拒絶することをやめよう。
もちろん、私はできるだけ抽象的ではなく具体的な話を心がけている。ただしときに具体論は思考の幅を狭める。私は最近のベストセラーはあまり読まず、古典を読むことが多い。前者と後者の違いは、抽象度だ。前者は具体度が高く、後者は抽象度が高い。もちろん、読みやすいのは前者だ。しかし、長く生き続けているのは後者である。
抽象的なことが高貴だとはまったく思わない。ただ、高次の論説は抽象的にならざるをえず、それを咀嚼してじぶんなりに理解することこそ長期的な糧になる。誰かから抽象的な話を聞いたり、何かで読んだりしたときに、「わからない」と放り出すのではなく、たったの10分でよいから考えてみる習慣が必要だ。
私は学生時代、大阪大学の経済学部の教室で、ゼミの教官でもあった猪木武徳教授(現・国際日本文化研究センター所長)の経済思想の授業を聞いていた。自然権と自然法のちがいをていねいに思想史からたどっていく授業では、学生のほとんどがその抽象度の高さゆえに意識を失っていた。私はその抽象度議論のなかから、近代イデオロギーが前提とする基本的人権や価値観が、ひとつの虚構にすぎず、それでもなお代替案がない以上は死守せざるをえない倒錯した制度であることを知った。私は全身に電気が流れるのを感じた。おそらく、資本主義における会社組織や労働者の権利もそのような消極的制度にすぎないのではないか。このニヒルな価値観は、ビジネスのみならず、私の生きる土台をその後も創りあげた。もちろん、抽象的な議論から導きだした解釈は、等価であろうとするほど、おなじく抽象的にならざるをえない。ここでは、私のかつての興奮を伝えることができれば幸いだ。
極論をいうと、自己啓発本は哲学書を読みこなすことができれば不要だ。自己啓発本の多くは、哲学書の皮相をさらに薄めたものにすぎない。哲学書の抽象的な議論についていくことさえできれば、自己啓発本の数百倍の学びを得ることができるだろう。
また、自分の無力感がときに仕事をこなす支障になることがある。誰だって「自分は何もできないのではないか」と考えてしまえば生きる意欲を失う。そこまでではなくても、自分の知識におよばないことが多いと感じると、虚無感にさいなまれる。
とくに人文系出身者は、「これは理系の知識だからわからない」と判断しがちのように思う。理系といっても、数学と物理と化学と情報処理では、地と天ほど異なる。パソコン=理系が詳しい、というイメージは明らかに錯覚である。