5章-2 モチベーションゼロの仕事術

私は、やる気やモチベーションは発明されたと説明した。そして、やる気やモチベーションがなくても仕事をこなす方法を説明し、その重要性までを語ってきた。

ここまで語ると、やる気やモチベーションがなければいけない、と感じていたひとたちも、モチベーションなどなくても仕事はできる、あるいはモチベーションなしでも仕事はやらなければいけないと思ってくれただろうか。

ここからモチベーションゼロで働く応用編を述べていこう。

 

1.個性を追求することをやめよう

ストレスとはすなわち、あるべき姿と現状との認識ギャップに起因して起きることである。前者は正確には、あるべき姿と思い込んでいる姿のことだ。もちろん、目の前の仕事がうまくいかずストレスを感じることは私もしょっちゅうある。しかし、より大きなストレス――この仕事を続けてもいいのだろうか、とか、私はこのために生まれてきたのだろうか、とか――に悩まされることはほとんどない。

私はいつも偽悪的にいうようにしているものの、物書きとしての私に表現したいことはほとんどなく、読者が喜んでくれるもの、あるいは嫌悪感をいだいてくれるものが、私の書きたいものだ。あるいは編集者が喜んでくれるものを書きたい。私が何を表現したいかなど、ほとんど関係がない。私はそれがお金をもらうプロだと理解している。

私のような書き手にも、「何か書きたいテーマはありませんか」と訊いていただける編集者がいる。私は、書きたいか書きたくないかではなく、売れるか売れないかで意見を伝える。売れそうであれば常に「何でも書きますよ」という。文体や内容も基本的には指示に従う。「心から書きたいものはないのですか」ともいわれる。しかし、多くの制約のなかで、それでもにじみでてくるものこそが個性であって、消そうとしてほんとうに消えてしまう個性であれば、そんなものは早くなくなったほうがいいと思っている。

おそらく教育も同じではないだろうか。個性教育などというもので個性が育つようには思えない。平凡であるように育てられても、それでもなお表出してくるものの欠片が、個性と呼ぶに値するものだろう。日本民俗学の開祖である柳田國男は教育のあるべき道を「平凡への強制」といった。宮本常一も同種のことを述べている。

通常の仕事であれ、私しか出せない個性というものを私は考えたくない。がんじがらめにされた制約と桎梏のなかで、かつ私の名前すら隠されていたとしても、それでも私がなした仕事でわかるようなものでなければ、とても個性などとは恥ずかしくていえない。

最近、某企業の新人と話していて「どうも、この仕事やっていて、自分でなくてもいいのではないかと思う。自分にしかできないことをやりたい」と聞かされて驚愕したことがある。降ってくる仕事は同じである。ただ、それを異なるものとするのが自分だ。自分にしかできない仕事なんて、ほとんどない。もしかすると誰でもできるかもしれない仕事であっても、真摯にぶつかることこそ重要だ。

私は、これまで上司から、「やりたい夢はなんだ」と聞かれて答えに窮してきた。私の上司であれば、この文章にうなずいてくれるだろう。答えようがないのだ。必死に働いて、あとから振り返って、これがやりたかったんだと誤解するようにはしている。しかし、常にそれは事後的なもので、事前的なものではない。

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