6章-7 モチベーションゼロの仕事術

加えて、批判だけで文章を読ませるには、相当な文章力が必要だ。書籍や映画、アートなどの作品をとりあげ、痛烈な批判を繰り返すブログを読んだことがあるが、たいていは読むに耐えない。誰だって、常に批判しているひとと一緒にいたいと思わないだろう。痛快な批判を書くと一時的には人気を博す。だけど、短期間だけだ。そのひとに何も残らない。

ここから個人の仕事を考えてみよう。私は「赤えんぴつサラリーマン」と「黒えんぴつサラリーマン」の二分類があるといっている。前者は、誰かの批判はできる。誰かの資料を読んで、赤えんぴつで問題点や不足点を指摘できる。ただ、まっさらな紙を前に出されても、自分の意見や主張を述べることができず、仕事を創りあげることはできない。それにたいして、後者は、前者からなんといわれようと、たんたんと粛々と仕事をこなし、自分なりの仕事を創りあげる。

批判ばかりするひとは、その批判がうまくできればできるほど、批判行為自体にのめり込んでいく。そして、批判ばかりに時間をとられていく。また、会社では評論家と呼ばれる人種にもそれなりの価値があるかもしれない。もちろん皮肉だ。そして、個人としては無価値になる。いつかしら自分の成長や改善を忘れ、他人を羨むことすら忘れてしまう(思うに、他人を羨むことは、成長への近道だ)。

そして、二つ目だ。これこそ信じてもらえないだろうが、固有名詞を批判するひとは、のちのち不幸になっている。それは科学的ではないため信じない、と思うひとは、きっとこれ以降を読んでくれないだろうから続けよう。

私は因果応報という言葉をあまり信じていない。悪いことばかりしても罰があたらないこともあるだろう。善いことばかりしても不遇に見舞われる人生もあるだろう。人生は偶然と非論理のかたまりだ。

ただ、それでもなお、なぜだか固有名詞を批判するひとは、周囲からのしっぺがえしを受ける。少なくとも、私は周囲のひとたちの観察からそう考えている。これは古臭い道徳や倫理を振りかざしたいわけではない。私はほとんど道徳などというものを信じてはいない。むしろ無視しても良いと思う。ただ、私が述べたいのは、あくまで実利的な意味で、他者の批判を止めましょう。ということだ。

おそらく、このメカニズムには次の理由があるように感じる。あるひとが、誰かの批判をいうとする。それを聞いたひとは、その批判者の穴を探しだす。つまり、他者は、批判者がその批判をいうにふさわしい人物かどうかを無意識に探し始めるのだ。

私は批判者そのものと、批判の内容は別に考えるべきだと常に心している。批判者がどんなにくだらない人物でも、批判内容が的を射ているのであれば傾聴すべきだ。しかし、たいていのひとはそう思わない。「あなたはそんなことをいっているけれど、あなた自身がたいしたことないじゃないか」と思うのだ。

つまり、批判をすること自体が、自分への批判を集めやすくする。自分へ批判を抱くひとを多くしてもトクなことはほとんどない。少なくとも、一般の勤め人の場合はそうだ。もちろん、ヒールを演じる芸能人はその限りではないし、批判を笑い飛ばしてある種の芸に昇華できるひとは別かもしれない。ただ、その生き方はつらいだろうな、と思う。

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