6章-6 モチベーションゼロの仕事術

【Ⅱ.著者による創世記解説】

 

創世記の説明を付記しよう。もちろん、創世記の地と都とは、ひとつの比喩にすぎない。

ここで、仕事をするうえで気をつけねばならないことを述べる。前章から、さらに心構えについて深堀りしていく。定量的ではなく、理論的ではないので、信じてくれないひともいるかもしれない。ただ私のなかで重要なことであり、かつ仕事で成功しているひとたちをみて共通していることだ。

 

(1)特定の個人、固有名詞をあげて批判しない

地の特徴として、自分がおよばぬひとたちへの批判姿勢があげられる。

インターネットでは匿名で特定人物への非難・批判が書かれる。無名の集団は、ときとして暴力となる。誰が攻撃しているかがわかれば、まだ不安はない。ただ、インターネットの恐さは、批判者の匿名性にある。

批判する側はまことに痛快かもしれない。ある種のストレス発散にもなるだろう。ただ、私は固有名詞をあげて、その特定のひとを批判することはやめたほうがいい。私は好き勝手に罵詈雑言を書いていると思われている。ただ、私の文章を読んでいただいたらわかるとおり、個人名や特定作品などの批判や非難は書かない。

なぜだろうか。それには理由が二つある。

一つ目は、誰かを批判することによって、かつて説明した怨恨(ルサンチマン)に陥りたくないためだ。批判や非難を述べるとき、それは批判者が対象に羨みを感じている場合がほとんどだ。なぜなら、羨みや嫉妬、羨望などをまったく感じないのであれば、そもそもその対象について述べること自体が時間のムダだ(その場合は、批判などせず他のことに時間を使うことだ)。私は、単なる羨みであれば、それは怨恨ではないといった。だから、羨み自体が悪いわけではない。ただ、その羨みが過ぎて、その対象を批判し、自己を正当化するにいたったとき、怨恨は完成する。

地は、「軽薄かつ大衆文化に染まった日本企業では地の才能を活かす道がない」と述べ、「売れ線に迎合するぐらいだったら、就職しないほうがマシだ」とまで宣言した。これは、怨恨そのものだ。全身全霊をかけたあこがれと、かなわなかったときの完全否定。地は倒錯した価値観を創りあげた。

これは個人間の会話でも同じだ。できるだけ、個人を批判することはやめたほうがいい。ほんとうに批判したいほどくだらない人物や作品であれば、さっと身を引くことだ。人生は短くそんなことに関わる時間はない。たまに、ブログなどで「他のひとが時間とお金をムダにしないように、この映画がくだらないことをお伝えしたい」と書いているひとがいる。その意味はない。そもそも、そんなくだらない作品にブログをアップする時間を使う理由がわからない。おそらく、くだらない作品に自分の時間を浪費することは、生活の非効率性をもたらすだろう。それに、個人のブログなど、ほとんど読んでいるひとはいないわけで、その影響力はほとんどない。

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