2章-1 モチベーションゼロの仕事術

以前、アメリカ人女性が結婚するまでに経験するキスの相手が、平均で九十数名に及ぶという話を聞いて驚愕した記憶がある。

おそらく小学生のときに読んだ雑誌か何かで、いまでは正確に思い出すことができない。もちろん、このテの調査は実証的ではないし、その信憑性はさほど期待できるものではないかもしれない。ただ、その結果がさも普通のことかのように書かれていることが刺激的すぎたらしい。そのころのナイーヴな私を驚かせたのは、その圧倒的な数字よりも、記事の文調の「普通さ」だった。その程度の数なら「ありえる話だ」と思っている大人の世界そのものだった。

女性たちはその相手全員に本気だったのだろうか? そんなに運命のひとに出会えないものだろうか? それとも、日本人だってそんなものだろうか――? 幼い私を想像の世界に浸らせるに十分なものだった。

多くはないものの、大学生時代の恋人と結婚に至る例は、ある。しかし、高校時代の恋人同士が結婚に至る例は少ない。中学校あるいは小学校時代のちいさな恋の相手は、ほとんどの場合は実際の結婚相手と異なることがほとんどだ。彼らは九十数人に進むカウンターを、ささやかにノックすることになる。

私はカフェで原稿を書くことが多いのだが、そのときに窓越しに幸福そのものの中高生カップルを見ると、たまに手が止まってしまうことがある。そしてふと「彼らが、別れてしまうことをあらかじめ知っていたら、どうなるだろう」と思ってしまう。彼らとっては、私はバカな大人に過ぎない。それでも、彼らは将来に誰もが一度は経験するように泣いて別れて、そのあとまた違う相手を見つけて、ふたたび同じことをくりかえすだろう。もし、この二人がそんな将来をあらかじめ知っていたら――?

そこまで考えて私はふたたび我に返る。

そんな質問にどのような意味があるだろう。ひとはいつか死ぬとあらかじめ知りながら、それでも生きているではないか。「なぜ生きるのか」という疑問はいつだって青年たちを虜にしてきた。しかし、それに対して万人にあてはまる答えを用意できるというなら、まやかしか狂信者のどちらかだ。すべてのひとの人生をまるごと意味づけることなどできるはずもない。

「彼らが、別れてしまうことをあらかじめ知っていたら、どうなるだろう」――? その問い自体が無意味に違いない。今が愉しい、嬉しい、幸せ、それだけで十分ではないか。それに、その答えは、「それでもつきあい続ける」になるだろう。

若いカップルは、目の前の相手と「あらかじめ別れてしまうとわかっている」としても、「今が愉しい」という一点のみで、いやその一点ゆえに輝く。

ひとは「昔はよかった」という。お金も経験も地位もなかった以前の自分を思い出しては、「あのころは幸せだった」「あのころは愉しかった」という。何か特別な将来計画があったわけではない。何か特別に将来を夢見ていたわけではない。ただただ目の前のこと、「今」に集中して過ごしていたころに望郷のごとき感情を抱く。

いつから私たちは、将来の得もいえぬ不安にさいなまれるようになったのだろう。いつから私たちは、今を愉しむことをやめ、今に集中することもやめ、資格試験を勉強して違う未来を描こうとし、異なる分野で夢ばかり追いかけようとするのだろうか。

資格試験の勉強をしているひとたちは、今に集中し今を愉しんでいるひとを見ると、「あいつらは、いま遊んでいるから、将来は大変なことになる」と侮蔑する。節約の観点では、短期的に浪費するよりも、中長期的な観点から貯蓄することが必要だ。しかし、資格試験の勉強をしているひとたちは、充実と愉しみを先延ばしにして、それを味わうことができるのだろうか。侮蔑と軽蔑は、多くの場合、羨望の裏返しのことが多い。「いま遊んでいるから、将来は大変なことになる」ことが明らかであれば、侮蔑と軽蔑は語られるはずはない。「自己愛の本質は、他者への軽蔑だ」と私は書いた。とくに、自信のない自己愛は、他者への軽蔑に生まれ変わる。

今を生きること。それが、私たちができるせいぜいのことなのではないだろうか。

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