書評「初恋と不倫」(坂口孝則)
ちょっとむかしのことだ。
アンケート調査をすることになった。統計上の話は割愛するものの、世論調査のようなアンケートの場合、おおむね1500人くらいを対象とする必要がある。また、できるだけ対象の特性が偏らないよう工夫する。そこにバイアスがかかる可能性があるからだ。
ただ、実際、企業が商品開発やマーケティングにアンケート調査を活用する場合は、なにより先に予算がある。1500人にも実施できない場合は、1000人でも、500人でもしかたがない。
私がかかわるものは新商品コンセプトについてのアンケート調査だった。新商品開発をスタートする前に、企業の役員にコンセプトを説明して承認をもらう。その際、もっとも支えとなるのが、「お客様の声」だった。アンケート調査をやって、お客が求めているものを商品化する。これが日本のモノづくりを陳腐化させた原因であることは間違いない。お客が革新的な商品などをアンケート調査で答えるはずがないからだ。ただし、それでも数的に表現できるアンケート結果は、たしかな説得力をもっている。
「アンケート調査を実施しました」。担当者の、いつもの発表だったが、これまでと異なるのは、対象人数だった。
たったの20人――。
でっちあげもできるレベルだ。会場がざわついた。話にならない、という雰囲気が充満するなか、その担当者はいった。「これ、みなさんの家族からアンケートをとりました。ひごろ、家族がこういうこと思っているって知っていました?」
会場の雰囲気は一変し、そして会場は爆笑に包まれた。このときほど見事なプレゼンテーションを私は見たことがない。みじかなひとを満足させるのが商品開発の基本だとかいって、その商品は可決された。
人間的な、あまりに人間的な、場面だった。
「初恋と不倫」は読後がきわめて不思議で、かつ爽快な物語だ。この小説は、二つの、それでいてつながりのある物語から構成されている。一つ目は、中学から社会人になるまでの男女の初恋を描いたもの。そして、二つ目は、配偶者を失った男女二人が邂逅する物語だ。この小説の特徴は地の文がなく、登場人物二人の往復書簡のみで進行していく点だ。
一つ目の物語は、玉杢広志と三崎明希が主人公だ。三崎明希からの手紙に、そっけない態度を取り続けた玉杢広志だったが、三崎の奇妙な魅力に惹かれていく。デートのあとは、むしろ玉杢が好意を寄せる。しかし、そこで、突如、三崎は転校によって姿を消す。恋を引きずる玉杢に、三崎から届いた手紙は、なんと三崎がバスの運転手と婚約したと書かれていた。
玉杢は、ずっと三崎を探し、初恋を成就しようとする。しかし、三崎にはもう婚約者がいるのだ。しかし玉杢の想いは霧消することなく、むしろ日に日に大きくなっていく。初恋の男性と、なぜか逆に恋心をいだかれ続けることになった女性と、その婚約者。物語は、この運転手である桂木良佑が失踪するところから大きく転換していく。初恋の対象が反転し、しかし、二人にとって初恋が人生に影響を与え続けるさまがあざやかに書かれている。
二つ目の物語は、待田健一と田中史子が主人公で、田中が待田にメールを出すところからはじまる。見知らぬ女性からのメールだ。最初は迷惑メールとしか思っていなかった待田だが、田中がある事実を知っているとわかり接近していく。
待田はアフリカに行った妻を現地で亡くしたのだが、その秘密を知っているという。田中はなんと待田の妻が生きていているといい、男性と暮らしている写真をもっていた。しかも、その相手は、田中の夫というのだ。田中も、待田とおなじく、配偶者を喪失する共通経験をもっていた。田中はモロッコで行方不明になったままだった。
田中と待田は情報交換からはじまり、不倫関係になっていく。最初は拒絶反応さえあった田中にたいして、むしろ積極的なアプローチを重ねる。二つ目の物語もおなじように、男性が逆に女性に惹かれていくのだが、その不倫は、奇妙な終焉を迎えることになる。
現在、さまざまなメディアでの宣伝広告が効果を失っている。さまざまな理由があるものの、もっとも大きいのは、そのリアリティがなくなっているからだと私は思う。自動車のCMで昭和のように明るく幸せそうな家族像を見せられても、あるいは日本茶のCMで江戸時代の庶民に扮した俳優を見せられても、あるいは、美男美女が愛しあう住宅のCMを見せられても、それよりインスタグラムに写るカリスマの一枚がはるかにリアルを感じる時代に私たちはいる。あるいは、LINEで送られてきた知人からの写真はなんとリアルにあふれていることだろう。
むかしから、「事実は小説より奇なり」というが、きっと違うのだと思う。小説は、あるていど理路整然と書かないと読者に理解してもらえないから、事実に勝てるはずはない。
たとえば現実には「それとってよ」「そういえば昨日の案件どうする」「あれは、スタバで話したとおりだけどさ、それよりもあそこの店員かわいかったな」「そういえばこの前、競馬に負けちゃったよ」といったような支離滅裂な会話が繰り広げられ、さらに論理的ともいえないような決断がくだされる。メールやライン、ショートメッセージなど、さらに突飛で、支離滅裂だ。
事実より奇なる小説は書けるだろうが、読むに耐えないものになるだろう。小説とは、あらかじめ現実に負けている。
しかし、やっかいな問題だ、と私は思う。リアルを追求しすぎると、それは小説の体をなさない。ただし、追求しないと、リアリティがなく、まったく読む気になれない。著者はその狭間をもがきながら闘わねばならない。現代小説のこういった闘いは、まさに企業が表現し社会に訴える際の闘いとおなじではないだろうか。
「初恋と不倫」にこのような会話がある。一つ目の物語で、理解不能な行動を重ねる三崎が自身をこう説明する。
<合理的に説明出来たらいいのにと思います。冷蔵庫の機能を説明するみたいに、炊飯器の機能を説明するみたいに、わたし自身の機能を説明出来たらいいのになと思います。>
家電を使った、このような表現があまりに突飛だ。あるいは二番目の物語で、待田がボーダーを着てくるシーンがある。すると、田中が翌日、このようなメールを出す。
<もしわたしがボーダーを着ていたらどうするつもりだったのですか。待田さんは人と会う約束をして、その相手もボーダーだった時のことはお考えにならないのでしょうか。飲み会に行ったら全員ボーダーだった時のことは考えないのでしょうか。>
この理屈だとボーダーは着られなくなる。いや、そこが問題ではなく、リアリティの話だ。この二つの引用だけではなく、唐突感のある会話があちこちに散りばめられている。不思議な感覚なのだが、このほどよい突飛さが、逆にリアリティを高めている効果を生んでいる。
私は先に日常会話の支離滅裂さを指摘したが、それを小説に移管するときの、ギリギリの挑戦がここにあるように感じられる。著者は、突発さと論理の狭間をただよい、小説っぽいものとリアルの狭間をただよい、勝利する保証のない一つの賭けに出たのだ。私はその闘いに勝利したと思う。あとは読者の判断にゆだねるしかない。
ただ、ビジネスでも人間活動を基礎にしている以上、大げさにいえば、創作物や発信情報には、ある種のスキゾ感覚が重要になってくるのではないだろうか。
冒頭でアンケート調査の話を書いた。なぜ、ひごろのアンケート調査よりも、みじかなひとたちの意見を採用したのか。それは、後者に圧倒的なリアルがあったからだと私は思う。少なくとも、みじかなひとが答えただけで、それがリアルに感じられたからだと思う。統計処理やビッグデータがさかんだからこそ、逆にナマの20人がリアル、という逆説がある。
この書評で、私は何度か、「逆に」「逆説」と書いてきた。しかし、最大の逆説は、本書の二つの物語に込めた著者の仕掛けにあると私は思う。というのも、一つ目の物語は、初恋の話だったはずだが、最後にこれは婚約者がいながらも一人の男を好きでいる、不倫の物語であることが、壮大なしかけのうえ明らかになる。
もちろん文中には不倫という表現は出てこない。しかし、不倫が他の異性への慕情も含むのだとしたら、私の理解は間違っていないだろう。少なくとも、著者が無意識であっても書いてしまった結論としか私には思えない。
そして、二つ目の物語も、表面では不倫になっている。しかし、これまでの人生をいったん捨てて、新たな人生を歩みはじめた主人公二人の初恋として書かれている。信じていたものを失った虚無感だけではなく、これまでの思い込みを大きく塗り替えた解脱感。
愛が相手の感情を優先したうえで相手を大きく包み込むものであるのにたいし、恋が自分の感情を優先し一方的な解釈で相手を抱き込んでしまうものだとすれば、それは初「恋」にふさわしい。
本書は二つの物語とも、完全なハッピーエンドではない。しかし私は本書を読んで、さまざまに移りゆく人間にたいして、優しくありたいと思うようになった。
ここにも人間の大きな逆説がある。
<了>