サプライチェーンと映画「シン・ゴジラ」(坂口孝則)

<「シン・ゴジラ」とトヨタとぼくらの調達>というタイトルで私が書いた原稿を加筆・修正し、このたび電子書籍になりました。この大半は他の論者のものですが、私が書いた論考を掲載します。どうぞ深読みっぷりをお楽しみください。

●ゴジラと日本主義の精神
ゴジラは水素爆弾を暗喩するものだった。第一作「ゴジラ」(1954年)では、明確に水爆大怪獣と呼称されている。水爆実験を行った国が、しっぺ返しとしてのゴジラの応報を受けるならわかりやすい。しかし、日本は水爆実験を行った主体ではない。例えば、第五福竜丸は1954年に水爆実験による放射性降下物を浴びたが、それは米軍によるものだった。

ゴジラは、米軍の水爆実験を受け、なぜか日本にやってきた「ねじれた」怪獣だった。1954年にゴジラが”来日”したときには、ゴジラは街中を破壊し尽くした。しかし、にもかかわらず、日米間の安全保障条約を無視するかのように、在日米軍は助けてくれなかった。日本人は、米軍のなした水爆実験の被害を受ける形でゴジラの訪問を許し、なすすべもなく、恐れおののいた。

これは、世界情勢に翻弄される日本国民のリアルを射影していた。世界では、米国を中心とした「誰か」が先導している。その国に反抗することはできない。ただただ属国は結果に恐懼し、そして、やりすごすしかないのだ、と。

●シン・ゴジラと日本主義の精神

映画「シン・ゴジラ」は原子力発電所の比喩だ。さらに、2011年3月11日の東日本大震災における福島原発事故の比喩でもある。1954年のゴジラが東京を夜に襲うのは東京空襲、そして「シン・ゴジラ」が昼間に襲うのは、東日本大震災の発生時刻ゆえだ。

第一作『ゴジラ』の状況がリアルと感じないほどには、私たちは成熟した。つまり、大国=米国の完全なる犠牲者であるといった惨めさは消えた。しかし、私たちはどれくらい成熟しただろうか。同映画中でゴジラは急速に進化するが、それは戦後レジームから進化できない日本人を皮肉る意味で作用している。

原発は、説明するまでもなく、米国アイゼンハワー元大統領の宣言からはじまった。原子力を平和利用することをうたい、クリーンな発電を主としたものだった。第一作「ゴジラ」と同じ1954年に日本で原子力発電予算が可決され、これを嚆矢としている。

かつて日本人は、犠牲者として核の恐怖を味わった。水爆実験の犠牲にもなった。そして、原発を自ら推進した当事者として、やはり核の恐怖を味わうことになった。本来は、その過程で日本人の進化が見えるはずだが、責任を誰も取ろうとしない日本精神は根源的には変わっていないのではないか。映画「シン・ゴジラ」は、そう疑問を呈したうえで、日本システムの限界と、希望と、そして、もう一度、絶望を指し示している。

●官製サプライチェーンの妙

映画「シン・ゴジラ」にはさまざまな見どころがある。ただ、その中でも瞠目すべきは主人公がほぼ政治家か官僚である点だろう。ゴジラは自衛隊の総攻撃にも動じず、米軍のステルス爆撃機「B-2」も撃墜する。その後、長谷川博己さん演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂が、先鋭チームとともに対ゴジラ・プランを練り上げる。ゴジラの分子構造を解析し、行動を抑制する血液凝固剤を経口投与する計画だ。そして、巨大不明生物統合対策本部副本部長に就任した矢口の指揮のもと、凝固剤(抑制剤)確保に奔走する。民間企業の協力と、そして内閣総理大臣臨時代理などの尽力があり、なんとか作戦が実行される。

この図は、東日本大震災の際、被災したルネサス工場の復旧に立ち向かった自工会(一般社団法人日本自動車工業会)のメタファーとなっている。ルネサスは、自動車向けマイコンで世界シェアトップを誇るが、茨城那珂工場はその主力だった。東日本大震災の影響で、工場は壊滅的な状況になった。あまりの瓦解で、数年、少なくとも1年は復旧までに時間がかかると思われていたところ、実に1カ月でインフラ設備は復旧した。

そのときトヨタ自動車をトップとする自工会の支援グループが、経済産業省の力を借りて、異常な速度でインフラ設備メーカーから復旧品の納入を受けたのはあまりに有名なエピソードだ。経済産業省の官僚が、日本中のメーカーに直接連絡し、日本の血流を止めてはならぬと協力を仰いだことが功を奏し、ありえない短納期が実現した。

その事実から考えると、映画「シン・ゴジラ」における矢口プランは、官製サプライチェーンともいうべき経済体制の、高度な批評となっている。それは戦後、日本では官僚主導で各業界構造が作られてきた、という大きな意味ではない。硬直化したはずの官僚制度は、民間と軌を一にし、単純な一目的のもとには有効に機能する、という事実を映している。

私は、矢口プランが、ルネサス復旧のメタファーだと述べた。このルネサス復旧に関するエピソードを庵野秀明監督が知っていたかは、もはや関係がない。物語は無意識を包含する。少なくとも、私たちはあの矢口プランで示された官製サプライチェーンにリアルを感じ、そしてある種の感動を覚えた。

●サプライチェーンとその疑問

私は邦画を見るたびに、まどろっこしさを感じる。その多くは、登場人物たちの「説明しすぎ」にある。なぜ邦画では、登場人物があらすじや感情を一つひとつ口で説明する必要があるのか。ひとりきりでいる部屋で、なぜ、あえて口に出して心理描写をする必要があるのか。それはテレビの影響がある。主婦を中心とする視聴者層は家事をしながらテレビをつけっぱなしにする。そのとき、登場人物は画面を見ていない主婦のために、みずからを説明せねばならない。

しかし、映画「シン・ゴジラ」は、その日本的演技を逆手にとった。言葉と説明を冗長にせねばならない政治の世界に舞台を設定することで、「不自然」は「自然」となった。これは一つの発明であったと私は思う。

ところで、感動的であるとはいえ、官製サプライチェーンが、あれほど納期を縮めたことに「不自然さ」はないのか。まず、この血液凝固剤を製薬と考えれば難しい。これは厚生労働省の承認まで10年かかるという制度上の長さだけではない。そもそも標的分子の探索から、理化学的研究にいたる、いわゆる非臨床試験の前段階であっても2年から4年はかかるからだ。また、医薬品医療機器等法があり、通常は、未認可製薬のために量産設備を稼働させることはない。

さらに製薬工程では、反応釜と攪拌(かくはん)翼が問題になる。撹拌とは原材料を混ぜあわせることで、攪拌翼は釜中央にあり回転する。少量の場合であれば問題ないところ、急に量産してサンプルと同一品質をつくり上げるのは難しい。さらに製薬はさほど大量生産を目的としておらず、必然的に多数の工場で血液凝固剤を生産することになるから、さらに同一品質が難しくなる。

●現場担当者への確認

複数の製薬サプライチェーン関係者にも確認してみた。かつて新型インフルエンザが流行した際、何千万人分のワクチンを増産した。そのように製法が確立しているものであれば、量産はできる。しかし、初品を量産することは難しい。また製薬の原材料はヨーロッパ、米国などから輸入するケースが多い。そのため、納期の問題も生じるかもしれない。

ただ、何らかの天才的なひらめきにより血液凝固剤の具体的な製造方法が確立し、超法規的措置によって設備が稼働するとしよう。さらに人体の安全を守るものではなく、ゴジラの生命を毀傷するものだから品質にも目をつぶるとしよう。ムラがあっても、それをすべてゴジラに経口投与するからだ。また原材料調達も問題ないとする。

そうなると、いわゆる製薬というより、工程外注に近い。あとは、ラインストップ時の補償などが問題になるだろうが、それも未曾有の危機だ。官から民にトップ指示が下れば「やるだろう」と関係者は語る。なお映画では、この血液凝固剤に極限環境微生物が必要とされるため、微生物培養、細胞培養をも行う医薬品生産に近いと判断した。

●化学プラントによる製造の可能性

もう一つの可能性として、化学プラント工場ではどうか。つまり、血液凝固剤を化学調合液体と考えた場合だ(正確には製薬もプロセス生産と呼ばれる化学プラントの一部ではあるが、意図的にわけた)。

大手の化学メーカーの関係者に聞くと、そもそも、化学プラントでは連続生産工程となっており、かつ、配管設計などのエンジニアリング全般が、特定の化学品を生産するために作られているため、別品を生産できない、と指摘する。

もちろん、使える工程をつなぎあわせる方法はある。しかし、その場合、血液凝固剤を生産したあとの通常品への復旧作業に莫大な費用がかかる。また、これだと極限環境微生物の培養は解決していない。ただ、そこは医薬品生産プラントからの絶大なる協力を得られるとしよう。

経済的合理性を排除すべき未曾有の危機だ。無理は多いものの、官から民にトップ指示が下れば「やるだろう」と関係者は語る。これも多くの仮定を含むものの、どうやら官製サプライチェーンならば可能になるらしい。

●そして官製サプライチェーンの限界

映画でキーパーソンとなる牧博士は遺書で「私は好きにした。君たちも好きにしろ」と述べる。なるほど、映画の深読みも批評も、「好きにしろ」ということだろう。そして次々に論評が出ること自体、監督の術中にはまっている。私も例外ではない。

さらに術中にはまるのであれば、あのセリフ「好きにしろ」は、映画『三大怪獣地球最大の決戦』(1964年)のメタファーだろう。その作品でなんとゴジラは、キングギドラと闘おうとするモスラに「勝手にしやがれ」という(これは比喩ではない)。しかしゴジラはやはりモスラを見捨てられずキングギドラと闘うのだ。『シン・ゴジラ』の監督は、鬱状態になりながら特撮と格闘した庵野秀明さんだ。庵野さんはゴジラに自らを重ねている。つまり、次はやはりエヴァンゲリオンを撮るのだと。やはり、あの作品を見捨てられないのだと。そこに私は監督の意思を感じざるを得ない。

この映画「シン・ゴジラ」は自分語りである。そして極限状態の監督が作成した感動的な輝きを放っている。

血液凝固剤により凝固したゴジラは広島原爆ドームや長崎平和祈念像、あるいは福島原発を暗喩するものとなった。矢口蘭堂と、石原さとみさん演じるカヨコ・アン・パタースンが、ゴジラを遠くに望み、安堵を浮かべるラストシーンは感動的である。あまりに感動的であるが、官製サプライチェーンの成功は、やはり、このような極限時にのみ輝くのだ、という逆説がそこにはある。

これは輝きである。そして、稀有な輝きであるのは間違いない。そして映画『シン・ゴジラ』は邦画の傑作であることは疑い得ない。しかしそれにしても、なぜ私たちはこの映画に心揺り動かされ、そして、つい何かを語りたくなってしまうのだろうか。私はその理由を、この映画が、日本的システムの限界と、希望と、そして、もう一度、絶望を指し示しているからだ、と書いた。極限状態では日本的システムは有効に稼働した。しかし、それは、裏を返せば、極限状態にしか輝かないのだ、と。

そこにある種の心揺さぶられる理由がある――、と少なくとも私には感じられる。

そして、最後の感動は「今回はうまくいったのだ」という事実に支えられている。社会と国際状況が変わらなければ、きっとおなじような「怪獣」がやってくる。誰もが心のなかではそうわかりながら、ただ目の前の解決をとりあえずは喜ぶしかないのだ――と。

<了>

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