明治大学・飯田泰之さん(准教授)と考える利益と調達(坂口孝則)

*明治大学の政治経済学部・飯田泰之さんと実施した対談を公開します。

◎トフラーの主張する「精神的満足度」は正しいか──坂口

 私は調達・購買の仕事をしているのですが、常にキーワードとなるのは「利益」です。ただ、かたや「利益追求だけで良いのか」「お金だけで人は幸せになるのか」といった議論があります。1980年代くらいにアルビン・トフラーの『第三の波』が流行しました。同書のなかで特に印象的だったのは、新たな損益分岐点の誕生のくだりです。これからは利益だけで損益分岐点を設定する企業は時代遅れになって、たとえば従業員満足度のような精神的満足度のようなものを踏まえた新たな損益分岐点が登場する社会になる、といったような議論がされていました。

でも、そこから30年経ちましたが、ほとんど変わっていませんよね。企業の何らかの損益分岐点というとやっぱり利益になるし、従業員の幸福度というのは、やっぱりお金に左右されるところが大部分を占めていると思うんです。

その『第三の波』の現代版のような話として、ある経営コンサルティング会社は「これからは金銭的な満足度だけではなく、従業員満足度や働き甲斐を社員に与えるべきだ」という経営理念を掲げて急成長しました。ところが2009年度の業績が赤字で、給料を下げた瞬間に、バタバタと社員が辞めていったということがあったんです。

給料だけがやりがいではない、だから社員のモチベーションを上げる場を提供しろと言っていた会社までが、やはり給料の低下によるモチベーションの低下という旧来の評価軸から逃れられなかったというのは、すごく象徴的なことだと思いましたね。そういう点からすると、お金と幸福度についてどう思われますか?

◎なぜ「お金持ちは不幸」という神話が生まれたのか──飯田先生

まず、1980年代の日本でトフラーが爆発的に受けた背景には、日本経済史的に非常に示唆的な理由があります。70年代から80年代までの日本では労働者が不足していました。 近代化の過程、その終盤には労働力が不足するものなんです。

ここで少し古典派成長理論のお話をしましょう。近代化の初期には伝統的な産業、典型的には農業に過剰な労働力が張り付いています。農家の次男坊、三男坊はいてもいなくても総生産量は変わらないという意味で文字通りの過剰労働だったんですね。これを経済学では偽装失業と言います。小規模農家の場合そもそも老人だけでも同じくらいの生産を維持できたりする。この過剰人口・偽装失業が生産性の高い近代部門に流れ込んだだけで経済はいわば勝手に成長します。これが古典派的成長です。

この古典派成長が終わったのが日本では60年代末とされる。このような古典派成長がおわると「浮いている」労働力がなくなるから企業間で労働者の奪い合いが生じざるを得ないのです。70年代はオイルショックという外在要因があったので顕在化しませんでしたが、80年代になると人手不足感は歴然としてきます。

そうなると、従業員満足度を上げないと人材の確保ができず、そして企業が存続できないという実情がありました。

当時、たとえば大田区の町工場に代表される零細企業は、極端な後継者不足になっていました。その理由は、仕事がなくて儲からないからという現在とは全然違う。仕事はあるにもかかわらず、中堅以上の企業があまりにも高い給料を払うものだから、町工場の方がついていけない。

その結果、町工場の息子も「こんな小さな工場なんか継いでられるか」となるし、親は親で「もっと稼げる仕事についてほしい」となる。操業を続けるにも、とにかく人も設備も足りない中で回しているから、納期が守れなかったり注文をこなせなくなってパンクしてしまうので、やがて工場を畳まざるをえなくなる。もちろん当人にとっては残念でしょうが、今からすればある意味幸福な倒産が多発していたわけですね。

ちなみに今、自動車や電機メーカーなどが下請けをいじめ抜いているということでよく批判されますが、メーカー側のベテランの人とかの言い分だと、「バブルのとき、どんなに頭を下げても、うちの製品向けにラインを回してくれなかったじゃないか。こっちだって切るときは切るんだ」という三分の理があるといいます。

ともあれ、そういう事情で80年代は労働市場が良すぎたので、従業員満足度を上げないと他に流れていってしまうという、当時の好況に即した特殊事情があったわけです。

では、そうした景気状態に関係なく、給料が低くてもやりがいによって会社を支えることができるのかどうか。ある意味では不可能ではないと思います。どうすればいいかと言うと、新人研修で海辺の合宿所に連れて行って、飯も食わせずに大音量でやりがいについて語らせるような洗脳っぽいセミナーをガンガンやればいい。実際、当時の新人研修のえげつなさは有名だったそうです。今でもそういうやり方をしている企業ありますしね。

しかし、そういうのを特殊なケースとして斥(しりぞ)けるのであれば、やはり主観的な幸福感を上げるための必要条件として、確実にお金は欠かせない要件でしょう。各種の幸福度調査みたいなものを検証してみても、とりあえず所得上昇が幸せを下げるという証拠は見出せない。

お金持ちは幸せじゃないという都市伝説があるじゃないですか。その際に言及されることが多いのがイースタリン・パラドックスです。例えば日本人,日本人には限らない先進国での傾向ですが,である僕の収入が上がると僕の幸福度は上がる。けれども、日本人の平均所得が上がっても、日本人の平均的な幸福度は上がらないというものです。

つまり、ここでイースタリンが提示しているのは、平均幸福度と平均所得は関係ない、つまり相対的な位置が重要なんじゃないかという提案です。ところが、これがなぜか、みんなが信じたい「お金を持っても幸せになれない」を証明するものであるかのように喧伝されてしまった。その結果、お金以外の幸福をさがそうという方向で幸福度調査を活用しようとする議論が進んでいったんですね。

お金以外の幸福があることは確かです。しかし、お金があると不幸というのは言い過ぎ。年収700~800万を境にして幸福度が下がるから、やはりお金持ちは幸せじゃないよね、という話を聞いたこと無いですか。これはちょっと注意が必要な数字です。1000万円以上の高所得者は年をとっているんですよ。人間にとって幸福度が下がる一番の原因は、年をとることなんです。そうなると、容貌だって衰えてくるし、体力もなくなって若いときのように元気に遊び回ることもできない。病気で苦しむことだって増えてくるし、それだけ死に近づいているわけですから、そりゃ幸福度は下がりますよ。

要は、どんなにお金を積んだって、加齢という絶対的な幸福度の減少をもたらす現象は食い止められませんというだけの話なんですよ。年齢やそのほかの条件をコントロールしてやると「幸福度が下がる」は言いすぎだというのがわかるんです。

◎「お金を稼ぐために」から「商品を広めるために」へ──坂口

なるほど、それは身も蓋もない話ですね(笑)。

ただ、会社の経営者たちと一緒に酒を飲んだりして、「そもそも商売とは何なのでしょうか?」という話をすると、「お客様の役に立つことだ」と言われることが結構多いんですね。「社会に貢献すれば利益はあとからついてくる」とかね。人によっては「お客様の幸福さえ考えていれば上手くゆく」とか。利他の精神というのでしょうか。正直言って、理解できませんでした。どうしても信じることができなかったんです。

最初は僕、それは「自分たちが儲かることだ」という本音が言いにくいから、建前を言っているだけなのかなと思っていたんです。でも、何度聞いても同じことを言う。やっぱり、その「お客様の役に立つことだ」とは、意外に本気なんじゃないかと思い始めたんです。

実際、稲盛和夫さんみたいに、本当はお金なんてもう要らないはずなのに、70歳を過ぎてもずっと働いてビジネスをやって、それを社会貢献的なマインドに結びつけている人もいるわけです。

あるいは、インターネットマーケティングで有名な某氏なんかは、400万円の利益が出るセミナーに、宣伝広告費で400万円使ってしまうそうです。「もし利益が401万円になれば、事業が拡大するからいいじゃないか」と。

だから、確かに現実的な問題としてまずはお金が必要だけど、ある程度の豊かさが達成された後は、お金をもらうために商品とかサービスを売るのではなくて、むしろ自分たちの信じる商品とかサービスを流通に乗せて広めるためにお金が必要だというモードに入っていくのではないかというようなことを、最近は思い知らされることが多いんですが、いかがでしょうか。

◎「自分のミームを残したい」という欲求──飯田

おっしゃる通りだと思います。つまり、企業や経営者個人にとって、「他にはない自分のミーム(情報模倣子)を残したい」という動機が前面化してきている。

特に、高度成長期が終わって社会の物質的なインフラがだいたい整って、物としての商品としての品質にあまり差がなくなった後の社会では、商品の付加価値を決めるのは、いかに消費者に情報的な差異を感じさせるかという、実体よりも差別化を中心とした価値の領域に入ってくるわけです。

トフラーの『第三の波』は、そういう消費社会のモードの移行を指摘したものとしては今でも正しくて、「自分のミームを残したい」という欲求を生産者が抱くようになるのは当然の流れなんですね。

こうした観点から一番幸福なのが、株主イコール社長イコール自分みたいなケースかもしれません。もちろん商売がうまくいっていれば……ですが。こういうスモールビジネスの場合、自分のやりがいであるとか、この商品を世の中に広めたいというパッションとか、会社を使って利益以外のものも最大化できるんです。

これが、株主と経営者のきっちり分離した上場大企業のような株式会社の場合だと、それぞれがやりがいを感じるものやミームとして残したいものについての価値感が、株主1万人いたら1万通りある。じゃあ、その1万人全員が納得できる価値は何かとなると、お金以外に無くなってしまうわけです。

◎おカネの信用力とは何か──坂口

共通価値という意味でも、やっぱりお金は大切なんだ(笑)。俗なもので、やっぱり「お金は大切だ」とか「お金がほしい」という願望を満たすことが最大公約数かもしれませんものね。ただ、お金って不思議ですよね。それだけほしがっているお金って何なのか。いまではお金とは、インターネットバンキングで、画面上に表示される数字の羅列です。僕らは、その数字の羅列がほしいだけなのか、と思ってしまう。そこで、改めてお金とは何かについて、本質的に考えてみたいと思います。

オタキングこと岡田斗司夫さんは、昔、DAICONと呼ばれる大阪のSF大会で活躍したことで有名です。

その岡田さんが某誌の連載で、DAICONでしか通用しない通貨を発行した時の興奮を語っていました。いま思えば、それは違法スレスレの行為だったらしいんですが、イベント限定の通貨を来場者に対して実際のお金と交換して売り出して、出展された同人誌などの作品を買えるようにしたんだそうです。

その紙幣は、言ってみれば単なる両面コピーの紙切れと鋳造した通貨です。やろうと思えば、偽造も可能だったんでしょうが、DAICONの入り口で日本円とその「通貨」を交換する仕組みだったようなのですね。

しかも、そこはオタクたちの聖地なので、紙幣や通貨を誰も偽造したりすることなく、完全にみんなそのお札の価値を信じきって使っていた。その空間では日本円は全く流通せず、むしろそのお札を記念品として持ち帰る人も多かったそうです。
これを聞いたとき、僕は「お金って何だろう」と思ったんですよ。単なる両面コピーされた紙でも、人々が信頼しさえすれば、何でもお金になってしまうものなのかな、と。

お金をお金として流通させる力って、いったい何なんでしょうか? 岡田さんはこの通貨の発行ことを「最終ビジネス」という表現を使われていました。

◎貨幣商品説と貨幣法制説──飯田

専門的な貨幣論には、もともと二つの考え方の系統があります。そのうち一つが貨幣商品説。

たとえば、パンと魚とか、魚と靴とかを物々交換するとしますよね。このような物々交換経済での取引は非常に難しい。

たとえば僕がラーメンを食べるために「経済学の講義を聞きたいラーメン屋さん」を探さなければならないとなったら……多分その前に飢え死にでしょう。さらに異なるもの同士の交換をどうやって決めたらいいかというのにも大きな困難がある。

そこで、そこそこ保存がきいて持ち運びが楽なものというので、だんだん交換のときには石や貴金属のようなものを、他の何かと交換するときの基準に使おうということになってきたわけです。

つまり、貨幣というのは物々交換における特別な商品であり、そして持ち運びに便利で腐らない金・銀がたまたまその地位についたというのが、この貨幣商品説の立場です。こうした伝統から、各国が保有する金の量に応じて貨幣の兌換価値を定める、いわゆる金本位制が成立していくわけです。戦後のブレトン・ウッズ体制もこうした金本位制を基礎に各国の通貨の定めた固定相場制でした。

もう一つの立場が、貨幣法制説と呼ばれるものです。これは、貨幣の価値は基本的に国家権力が定めるもので、最終的には暴力を背景にした強制である、とする立場です。

つまり、国が税金を取るときに「これで払ってもいいよ」という権利の付与であり、その裏側にあるのは「このメダルを国に収めないとお前の生命と所有物を差し押さえてるぞ」という脅迫的な社会契約として、貨幣は生まれてきたんじゃないかという考え方です。

商品説か法制説かは、歴史家の議論が白熱するところなんですが、僕としてはやはり貨幣は最終的に権力によってしか流通しないんじゃないかと思っています。

貨幣の起源についての考古学的な調査によれば、少なくとも東洋、とくに中国においての貨幣はそうやって始まっていると言われるようです。

中国では、春秋戦国時代から超越的な神様の存在が希薄な国で、道教のような世俗的な神しかいない。黄帝を神様として祭ってはいますが、これは伝説上の王さまであり、その性質は現代的に言うと仙人に近い感じ。そういう意味で、中国では権力は人間が持っているということに自覚的だったのかもしれません。その結果、貨幣は法律で定めるという形で始まっていったようなんですね。

同じようにヨーロッパの場合も、ローマ帝国のデナリ金貨なんかは、やはり権力という暴力装置が金の価値を保証することで作られたんじゃないかと思うんですよ。

なぜ金かというと、レアメタルとして工業製品に使われている現在と違って、柔らかい金には当時はなんの実用的な使い道も無かったんですね。キラキラ綺麗に光を反射するので、装飾品にくらいしか使えない。飾りというと、それは権力と直結する。現代の不換紙幣制度はなおさらでしょう。なんたって単なる紙きれですから。

だから僕は、貨幣論は権力論だと思っているんです。

◎実物として価値のないものがオカネとして機能する──坂口

なるほど。今の貨幣商品説にしても法制説にしても、つまり全く実物としての価値がないものだからこそ、お金として機能するのかな、という感想を持ちました。むしろ、お金自体には価値があってはいけないんじゃないか。

大昔には、椰子の実や毛皮なんかを貨幣の代わりにしていたこともあるんでしょうが、だんだん全く役に立たないようなものが貨幣に変わっていったのだとすれば、人類はそれ自体が役に立たないもののほうが、流通性が高まるということを無意識に発見していったのだという気がしますね。

役に立たないものこそ、自分の手元に残しておくのではなく、媒介物として手放すことによって他者と何かを交換できますものね。

◎国の通貨介入悪玉説の誤り──飯田

そう、貨幣は金から紙へ、さらに預金通帳の文字列になって、最後には目に見えないデジタルデータへと、どんどん何でもないものになっていく。これは同時に、権力というものがどんどん目に見えない形になっていくということかもしれません。

一応は金で紐付けされていたブレトン・ウッズ体制も、1970年代のニクソン・ショックで崩壊して、国家の信頼度だけが通貨の価値を決めていく変動相場制に移行していくわけです。

ちなみに現代ではもはや金本位に復帰できない一番の理由は、固定相場か変動相場かという制度論的な問題よりは、金が主要工業製品としての実用価値を持ってしまっているからでしょう。

かつて、金はごく珍しいアクセサリー以外の用途が無かったのに対して、今ではよく使われる工業品材料の一つでもある。そのため、海外の工業製品としての金需要によって国内の金融政策が毎日変わってしまう。ゆえに、金自体を本位にすると国内の金融と何も関係ない理由で価値が動いてしまうので使えないという要因が一番大きいでしょうね。

ともあれ、こうしたブレトン・ウッズ体制崩壊以降の現実は、完全に法制説の世界だと言えるというのが僕の立場です。特に先進国貨幣は決定的で、政府に永続性があると信じられているために国家権力以外の何の保証も必要としない。それに対して、不安定な発展途上国では政府に永続性がないので、最悪のケースでドルと交換してあげますという約束がないと、誰も怖くて自国通貨で取引できないというわけです。

日本は少なくとも完全な法制説です。円の価値を支えているのは法律だけですから。貨幣というものが最終的に国家でしか供給できない。そうすると、供給は政府以外のだれも決められないという状態になるんですね。これは市場における独占企業に近い状態です。通常の独占市場の場合は国が介入して値段のつり上げなどを防ぐわけですが、国自体が独占供給者の場合は、ある程度ルールに基づいて行動させるしかないんですよね。

だから、たとえば日本銀行に対する圧力はよくないという考え方とか、国が貨幣をコントロールするのは悪しき介入主義だ、といった話は全く的外れです。現代では、「お金がある」「貨幣制度が存在している」ということ自体が、もう決定的な国家の介入であるということが忘れられている。不換紙幣制度・変動相場制にあっては、通貨は国がコントロールするしかないんです。

◎ホリエモンは国家権力への挑戦を口にした──坂口

そこで思い出したのは、まだライブドア事件前で同社の社長だった頃の堀江貴文さんが、あるインタビューで「日本の円よりもライブドアの分割株式がお金みたいに流通すればいい」って言っていたことです。僕は「すごいこと考えるな」と思うと同時に、「堀江さん、大丈夫かな」って思ったんですよ。

山田真哉さんの小説『女子大生会計士の事件簿』(英治出版)にも、自社の株券をお金のごとく刷りまくる経営者が出てくるんですよね。合法的な偽札づくりだ、とい文脈で書かれているんですが、それを読んだ人はあやうさを感じずにはいられない。というのも、国家が独占しているはずのお金を刷るという権限を、一つの私企業が奪取すると言っているわけですよね。つまり、暴力に裏付けされた国家権力への挑戦を無邪気に口にしてしまっている。

僕が堀江さんに対して「大丈夫かな」と思ったのは、ちょっと後出しジャンケンっぽい言い方です。だけど、その後ライブドアに強制捜査のメスが入ったときには、「あれほど頭が良い人でも、国家権力に抗うことはできなかったんだ」と思ったんですよ。僕は正直、まだ堀江さんが捕まってしまった理由をいまいちわかっていません。

これに関連して僕が面白いなと思うのが、偽札を刷ることへの罰です。直感的には、強盗や殺人などのほうが罪ですよね。特定の被害者がいるわけですし。でも、あまりリアルに人々が困る度合いの大きくなさそうな偽札を刷る罪って国によっては、死刑に近いくらいの超厳罰が与えられますよね。

偽札づくりについては、真保裕一さんの小説『奪取』(講談社文庫)などがありますが、それらを読むときのドキドキ感って、厳罰に処せられる危険の裏返しですよね。

やっぱり、それだけ通貨発行権への挑戦というのは、国家権力にとって存立基盤そのものを侵す脅威だと思われているということなんでしょうね。

◎政府発行通貨という「究極の偽札」──飯田

そうです。わかりやすい暴動や革命と違って、通貨の偽造って、被害者が被害を受けていることにそうそう気づかないんですよ。例えば、1億円の偽札を流通させたとすると、それがマクロ的には微妙なインフレを起こすことになるので、日本国民全員が0・000000001%ぐらい薄く広く損をするというのが「被害」の内実です。そんなのは、普通の人が気づきようがない。だから、法律でよほどきつく禁止しておかないと、被害者が被害を受けていることに気づかず、延々と発行者だけが得し続けるわけです。

それで、僕がいつか書きたいと思ってるのが、財務省の役人なり日銀マンが偽札を密かに刷ってばらまくという小説なんです。本物と同じ紙で、透かしもつけて、通し番号まで矛盾のないようにまったく同じ機械で印刷した究極の偽造紙幣を、市場に流通させたとする。こうなると、モノとしてはもはや本物のお札とまったく識別することができないわけで、そのお金はいかなる意味で「偽札」なのか、という問いが生じてくるわけですよ。現代の不換紙幣制度では、いわば「本物の偽札」が存在し得るんです。

これは、厳密な法制説で考えるなら、正規のプロセスを経ていないからお金ではないということになります。しかし、たとえば岩井克人先生の貨幣論によるなら、どんなプロセスであれ、誰もが識別できず、みんなが信用して受け取るかぎりは、間違いなくお金そのものだということになります。効果としては、ただのインフレ圧力にしかならない。

で、この「究極の偽札づくり」をしたのが、財務省や日本銀行の役人レベルの反逆ではなく、政府の意志だったらどうなるか。財務大臣がインフレ圧力を醸成するために国立印刷局に1兆円分の紙幣の印刷を依頼したとすれば、これはいわゆる政府発行通貨になるわけですね。そしてこれは、現在の日本の法律でも決して禁止されていません。

だから国会議決さえ通せば、1兆円でも10兆円でも100兆円でも市中にばらまくことができて、どこにもこれを否定する力はない。お金というのは、そのように全くの人為の産物であって、権力の行使によって、操作される対象なのです。

◎ここまでの対談について──坂口

ここまで話がたどり着いて思ったんですね。調達・購買という仕事は、まず一義的に自社の利益を拡大するために仕事をしています。でも、10億円の利益をあげる会社が、1億円の利益の会社よりも幸福度が高いかといったらそんなことありませんよね。飯田先生のいう、限界ってあるような気がします。さらに、その「10億円の利益」というとき、その利益って結局は見たこともないし、説明を受けるだけのバーチャルな数字でしかありません。

経理部門だって、実際にサプライヤに振り込むお金も、お客さんから振り込まれるお金も見たことがないはずです。調達・購買部門だって、見積書と検収書は見たことがありますが、どこまでいっても、それはバーチャルな対象でしかありません。私たちはなにを相手にして仕事をこなしているのか--。考えれば考えるほどわからなくなる場合があります。

もしかしたら、高度資本主義は、こういった疑問を構成員にもたせないことで成功したともいえるのかもしれません。こういう疑問をもっても、しかたがない、と割り切ることもできます。ただ、調達・購買部門が追い求めているはずの利益っていったいなんなのか。私はちょっと考え続けてみようと思います。

(つづく)

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