志村けんさんから学べること

(2016年4月19日に次のような原稿を発行していましたので、再掲します)

志村けんさんは、「変なおじさん」というキャラで一世を風靡しました。しかし、それは哀しみの裏返しだったことを知るひとはほとんどいません。あれは、痴呆症のお父様がモデルになっているんです。しかも、志村さんの父親は交通事故にあって後遺症が残っています。それを笑って吹き飛ばすよう、哀しみの裏返しとして「変なおじさん」をはじめました。

おそらく、2016年の現代に、あのギャグをやったら、批判が殺到するかもしれません。でも、何かを批判する際には、実は演者が哀しみを背負っているかもしれないと思う想像力は残しておきたい、と私は思います。

もともと志村さんは、いかりや長介さんの自宅を調べ、いきなり訪問して弟子入りを志願します。みなさんも、何かを待つ、という経験をしたことがあろうかと思います。みなさんが志村さんだったら、いかりや長介さんが不在だとわかって、ご帰宅までどれくらい待つでしょうか。志村さんは、雪が降るなか、なんと12時間も待ったそうです。

志村さんはボーヤと呼ばれ、雑事などの付き人業務をずっとやらされます。しかし、なんとか前座で芸をする幸運が巡ってきます。おそらく、ここで「前座の芸を始めた瞬間、観客は目を疑った。あまりの面白さに、驚愕した。そして、それをたまたま見ていた番組のプロデューサーが……」などと書いたら面白いですよね。でも、実際は、少しずつ少しずつ人気があがったようで、劇的なことはほとんどなかったようです。

人生はときに映画よりも奇怪かもしれません。しかし、多くは平凡なものです。ただし志村さんの場合、興味深いのは……。

知れば知るほど、圧倒的な努力を重ねていることです。いま、新人が入ってきて、すぐさま「重要な仕事を任せてもらえない」といって辞めるケースがありそうです。しかし、志村さんは、そもそも舞台にあげてもらえず、さらにドリフターズに加入してからも、2年間はほとんどウケなかったのです。

それに耐えて、しかし、勉強を続け、芸の練習をし、やっと人気がではじめます。

さきほど、「2年間はほとんどウケなかったのです」と書きましたが、その後やっと「東村山音頭」が受け入れられはじめます。会社員では、3年以内に3分の1が辞めるそうです。その意味では、志村さんが、いかりや長介さんに弟子入りしてから、3年以内に辞めていたら、現在の志村さんはいないことになります。圧倒的な努力と、そして、練習を積み重ねていた、誰も認めてくれないのに。そこに私は何か考えさせられるものがあります。

もちろん、これは「若者よ会社を辞めるな」という安っぽいメッセージではありません。しかし、何かになるためには、10000時間の訓練が必要です。何かになるとは、何かのプロになるということです。一日10時間の訓練なら、3年ほど。一日5時間なら6年はかかります。いま活躍しているひとたちも、実際は、努力のひとであると知ることは、私をなぜか安心させてくれます。

そして、私はいつも思うのですね。「私は凡人だから努力せねばならない」と。

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