必見!文章の書き分けについて(坂口孝則)

ぼくに「文章の書き分け」について質問したひとがいる。ぼくはさまざまな媒体で書いていて、その文体を使い分けている。その秘訣を……というわけだ。もちろん、小説家ではないので、秘訣ってほど偉そうなものはない。

でも、一つの芸としてぼくの文章作法を公開してみよう。笑えながら読めて、それでいて、みなさんの刺激にもなるはずだ。たぶん(笑)。そこで、こんな題材を用意してみた(以下、お時間があるときにヒマつぶしでご覧いただきたい)。

この前、ぼくはあるセミナーを受講した。セミナールームに行くと、会場の外まで受講者があふれていた。すごい人だな、と思ったけれど、なんてことはない、受付の女性が新人だったようでモタモタしていた。受講者の名前を聞いて、チェックして、資料を渡して、席を指示する。それだけなのに、ひたすら遅い。受講者から「領収書はどうなった」と訊かれ、あとで対応すればいいものを、誰かを呼びにいって、受付を止める。

この時点で帰ろうかと思った。しかも待っているひとたちへの気遣いもない。あとから聞いたらインターンシップで働いている学生だったようで、不慣れなわけだ。会社からすれば受付くらい誰でもできると考えただろうけれど、セミナー参加者は長いあいだ待たされて不愉快なまま席についた。これではセミナーが良くても、ソンをする。そのセミナータイトルはマーケティング講座だったけれど、その会社の「マーケティング」には顧客満足がないのかと訝しんだほどだ。

……とまあ、ぼくの品川での出来事を述べた。

ところで、ぼくはこの出来事を、事実と感想を交えて書いた。主観が入っているから、正確な記述とはいえない。事実は一つだ。だけど、感想が入った瞬間に、文章はさまざまに形を変える。ここで重要なのは、自らが抱いた感想と、それをどう記述するかは別問題であること。つまり、感想とまったく違う内容を書いてもいい。当たり前のことだけれど、これは強調しておきたい。

なぜなら、文章は「心で感じたままに書きましょう」とする教えを信じているひとがいるからだ。そうじゃない。心で感じたままではなく、目的に応じて書くんだ。そのためには、自分の心をねじ曲げたっていい。もちろん、日記やポエムなら、ありのままに書いてもいいかもしれない。だけど、ぼくたちは、何らかの意図をもって文章を書く。だから、その目的のためには、自分の気持ちなんていうものを前面に出しちゃいけない。

ここで三つ考えてみよう。

1.左翼新聞でこの女子学生と世相をからめたエッセイを書く場合
2.右翼新聞でこの女子学生と世相をからめたエッセイを書く場合
3.雑誌でこの女子学生を描いたコラムを書く場合

この分類がすべてではなく、ここでは目的によって、書くべき内容や文体を変えざるをえないとご理解いただきたい。みなさんが原稿を書く立場だとして、これだけのエピソードから、三つの媒体に書かねばならないとしたら、どうするだろうか。以下は、ぼくなりの「回答」だ。

1.例文:左翼新聞でこの女子学生と世相をからめたエッセイを書く場合

ことわざ「情けは人の為ならず」をふと思い出した。先日、某所で公開講座を受講したときのことだ。次々にやってくる聴講者をさばく受付には女性がひとり。彼女が不慣れで受付は手間取り、開始時間ぎりぎりまで参加者は待たされた。みな、もどかしい不愉快な顔が並んでいた▼しかし、聞いてみると、彼女は学生でインターンシップとして働いているという。おそらく、少しでも早く社会を覗いてみたいと思い応募したに違いない。社会で働くことの意味を実践によってたしかめたいと、強く願ったのだろう▼欧米では企業が業務経験者しか採用しないために、新卒就職が困難になっている。企業側としても教育費が捻出できず、即戦力を求める傾向はこれからより顕著になるだろう▼しかし、誰もが最初は初学者である。彼ら彼女たちを私たちが暖かく迎えなければ、どの企業に未来があるだろうか。そして、社会に出る彼らを冷たくする国に将来はあるだろうか。損得にかかわりなく彼らを育成することが私たちに課せられている▼いつから私たちは実力主義の名のもとに、至らぬものたちを排除しようとしてきたのだろうか。彼らを劣るものとして扱うことに社会はもはやいささかの逡巡もない。ただし、私たちの社会を豊かにするのもまた途上の彼らの存在であることを忘れてはならない▼弱い立場を笑うことはできる、と同時に、同情することもできる。多くの場合、支援することは難しい。思うに先日の公開講座では、聴講者が受付の彼女を支えることはできなかっただろうか。聴講者自ら受付を手伝えば、効率的だけではなく、聴講者同士の交流にもなっただろう。批判の多い戦後民主主義だが、それが説いた平等と助け合いの精神だけでも後世に残したいと思うのは夢想だろうか▼外では真冬の風がひゅーひゅーと吹いている。弱きもの、至らぬもの、そして社会に出たばかりの彼らに寒風があたらぬように祈るばかりだ。

2.例文:右翼新聞でこの女子学生と世相をからめたエッセイを書く場合

有名な狂歌に「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)といひて夜も眠れず」がある。松平定信の寛政の改革において、文武両道がうるさく推奨された時勢を強烈に皮肉ったものだ。しかし、文武両道とはもともと、上に立つものは、それなりの学問を修めなければならないとする意味がある▼現代でいえば、さしあたり文労両道となろう。働くわたしたちは、単に利益追求だけではなく、広く教養を身につけねばならない。昨今のビジネスマンに著しく欠けているのは、哲学であり、歴史観だ。グローバル化時代だからこそ、日本人としての哲学や各国間との歴史背景を深く知る必要がある。哲学なき技術は凶器だと故・本田宗一郎氏はいった。世界のリーダーたるわれわれが文労両道を意識することは、成熟国家の美を世界に見せることだ▼しかし昨今では、教養を学ぶ機会を放棄する若者であふれている。先日、某講習会に参加した。受付の不慣れな女性は、現役大学生で、インターンシップとして働いているという。たしかに、大学の授業よりも実社会で働くほうが刺激的かもしれない。企業も大学で学ぶことなど役に立たないと、利益追求の実践のみを重視しているのだろう。しかし、学生とは、学び生きる者のことだ。本来の教養修得機会を捨て去った先に、真の国際人などありえるだろうか。尊敬される国の一員たることができるだろうか▼現在、傍若無人なふるまいがお得意な隣国が、これまでの各国間の歴史を無視して、領土を奪い、各国企業を圧迫するなど、政治と経済のパワーゲームに勤しんでいる。しかし、本田宗一郎氏の言葉を借りるならば、哲学なき政治や経済は凶器である。少なくとも、尊敬されぬ国家の栄華など、たまゆらであると私たちは心得るべきだろう。いまいちど私たちは文武両道の精神に立ち返るときにきている▼その時代にあって、日本人学生が学習しなくなったことは、ある種の「反動」であろう。4年間は学びのためにある。社会人の真似事をする期間ではない。この声はどこまで届くだろうか。彼らが「世の中に爺ほどうるさきものはなし」と詠まぬよう願うばかりだ。

3.例文:雑誌でこの女子学生を描いたコラムを書く場合

これまで私は2回ほど会社を辞めた。もちろん、いろんな理由があるけれど、仕事からそれ以上は得るものがないと思い上がったことと、繰り返しに耐え切れない私の飽き性にあった。ようは、それぞれの会社がどういうものだかわかってしまった。すくなくともわかったと思い込んだ。恋愛でも「あなたのことをもっと教えて」とはじまり、「あんたがどういうやつだか、もうわかっちゃった」でおわる。

自分のことを棚に上げるようだけれど、私は転職を勧めない。ひとは不満があるから、他の選択肢を見つけるのではない。他の選択肢があるからこそ、現状の不満を感じるようになる。生涯ひとつの会社に勤め、あるいはお見合い結婚から死ぬまでパートナーに連れ添うことが一般的だったとき、ひとびとの意識は不満や逃避ではなく、目の前を改善することに向かった。選択肢が増えることがほんとうの意味で幸福につながっているかはわからない。

私は現代ほど転職がさかんになった理由は、社会人たちがつながりだしたことにあると思っている。かつて、会社に入ってしまえば、同期・同僚とのつきあいがほとんどで、取引先を除けば「似たもの同士」の交流だった。しかしいまではSNS等を通じて、学生時代からの友人関係を継続しているひとがほとんどだ。必然的に自社の相対的位置づけを知ってしまう。各企業の実情が明らかになるにつれブラック企業なる単語が登場したのは興味深い。

新人社員のアンケートによれば、なんとか入社した企業にしがみつこうとする傾向が高いのに、実際には3年以内で3分の1は辞めてしまう。せっかく採用した新人に辞められては企業の教育コストはかさみつづける。某IT企業では師弟制度や社員旅行を復活させるなど、会社の色に染めようとしている。

先日、某セミナーを受講した。受付があまりに時間がかかっている。見ると、つたない素振りの女性が一人。聞いてみると、なんでもインターンシップで働いているようだ。彼女に企業が報酬を払っているかは知らない。受付業務をずっとやっているようだけれど、それでスキルが身につくとは思えない。見ていると、待たされたお客にたいし、お詫びで3分間8回ほどのおじぎをしていたから、45度のかがみ方は習得しているようだ。大学に戻ったら、「きょうはしゃざいを、まなびました」とでもレポートするのだろうか。「受付って難しい! テヘペロ」とつぶやくのだろうか。そして、中途半端な経験のあとに、学生生活に戻る。

仕事をやるとき、もう元には戻れない状況が功を奏する。やらなきゃ生活できない切迫感でひとは仕事に集中する。インターンシップは、正社員でない学生に仕事をさせる。仕事での成果とは、何ヶ月もかかるのが普通だから、大きな喜びを感じることはできない。そう考えると、インターンシップでは仕事のややこしさと、面倒さと、苦しかった思い出しか残らない。繰り返すと、仕事のほんとうの愉悦は、短期間で得られるものではないからだ。

そうすると、インターンシップによって学生はおかしな先入観をいだくだけで、新人社員の早期離職をむしろ推進することにすらなるだろう。それこそ「もうわかっちゃった」気になるからだ。

「すると、なんですかい。このコラムの結論は、学生は勉強しろと」
ううむ。平凡だけれど、大学で学べることはたくさんあるはずだろ。
「学費の振込方法とか、他人のノートのうまいコピー方法とか?」
それと、代返をうまくお願いするコミュニケーション力とかな。
「それと、つまらない授業で寝ない訓練も必要ですぜ。会社に入ったら眠い会議ばかりで」
そうだな。行くコト自体が重要なんだよ。
「大学(だいがく)を入れ替えたら、『だが、行く』になりますしね」
冗談なのか。ただ、学生なら友達と飲み続けても、それが貴重なモラトリアム期間だよ。
「学生(がくせい)を入れ替えたら、『胃がくせー』になりますしね」
学生諸君の検討を祈る。

・模倣した文章の「はじまり」「飛躍」「主張」「締め」の4箇所を抽出する

どうだっただろうか?

1.は某新聞の1面コラムを1ヶ月分ほど読んで書いた。2.もおなじく、某新聞の分析結果だ。そして、3.はぼくの好きなコラムニスト諸氏を分析したものだ。1.の例文は嘔吐をもよおす内容になっている。2.の例文も正論すぎてつまらない。3.は数点ほど「なるほど」と思わせるポイントを配置し、書き手の毒やクセを前面に出しておいた。

およそ1.2.は商品として価値があるのか疑ってしまうものの、ここでは需要があるからビジネスが成り立っているのだ、と考えておこう。1.ではささいな出来事を拡大解釈し、現代の問題点をえぐった気になり、で、結局なんだかわからないけれど、まあ時間つぶしになったかな、と思える。そういう文章が求められているのだ。2.もおなじだ。

1.を書くとき、ぼくはこのように分解した。一つひとつの文章をそのまま読むのではなく、一つ抽象度をあげて、そのシステムを抽出するのだ。

① 「はじまり」:(ことわざ、古語、名言など、誰かの権威を借りた引用が多いなあ)
② 「飛躍」:(そして、日常のささやかな出来事を、いきなり社会の大問題かのように語りだす。なんだ、この独断と偏見は! そして高所から、現代の問題点を嘆いてみせる)
③ 「主張」:(誰も批判できないような、ゆえにつまらない結論。人権、他者への優しさ、助けあい、環境、コミュニティ……等々の必要性を語る。ここに読者として新たな発見などない)
④ 「締め」:(自然とか季節とか、まったく無関係な引用。それにオヤジギャクのように、これまでの文章をくっつけておしまい。このコラム書くだけの社員がいるのは凄いなあ。俺ならこれくらい何本でも書けるぞ!)

という感じでメモしていった。まあぼくのたわごとは無視してくれてかまわない。繰り返すと、重要なのは文章そのものではなく、システムだ。この程度の分解であれば誰だってできる。分解結果もわかるのが、その媒体で「読者から求められる」文章だ。あとは、これにしたがって書いていけばいい。ぼくのサンプルはすでにあげた。

よくすぐれた文章を書くために何をすればかいいを訊くひとがる。ぼくの答えは簡単で、書かねばならない「模倣すべき」文章の型を分析すればいい。

ところで、このような話をすると、「求められる型から脱却するのが大切ではないか」と意見をおっしゃるひとがいる。それに対するぼくの答えは、
・文才のある人ならともかく、ほとんどのひとは凡才なわけで、型を学んだほうがいい
・それに、型から脱却するにしても、まずは型を分析しなければ、逸脱すらできない
・また、型にはまったくいらで、文章からにじみ出てくるその書き手の個性がなくなるとすれば、そもそも個性なんて無いので、それを考える必要すらない
となる。

ちなみに、ぼくは高校生のころ、「宝島30」を読んでいた。その冒頭に、月の出来事をまとめたレポートが書かれていた。無記名の原稿だったので、それは編集部によるものだと想像できた。そして、なぜだかわからないが、その文章が単なる解説にとどまらず、面白く、教養にあふれたものに感じられた。当時の執筆陣よりも、何よりこの冒頭解説を書いているひとがただものではないと、稚拙な読書経験しかもたなかったぼくにもわかった。

その文章を書いていたのは、のちにベストセラー作家となる橘玲さんのものによるとわかったのは、それから15年後だ。宝島社から取材を受けたとき、たまたま担当者がかつて「宝島30」の編集者だったので教えてくれた。「あなたのように、あの文章は誰が書いたものかと、問い合わせを受けた経験は一度や二度ではありません」とも。

型にはまった文章であっても、すぐれた筆力や個性を示しうるのだと理解できた経験だった。氏が金融の文章を書いても、当分野に関係のないひとが惹きつけられるのもそのせいだろう。橘玲さんの著作全作を読んでいる身としては、合点がいった。

ぼくは書き手の個性などを信じていない。どうしても個性を強調したいのであれば、型を使いわける器用さをもてば、一つの個性になるだろう。

そして加えていっておくのであれば、文章の型を多く持ち使いわけられれば、文章を書く行為そのものにある種の愉悦を与える。心から湧き出るものを捕まえるのが文章ではないか、との反論には、「では、それをより伝えるために型を学ぼう」といっておきたい。

ということで、ぼくの文章作法講座、参考になっただろうか。

そんじゃあ、また。

<了>

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