強いはずの調達
「なんでこんなに高いんですか!」
バイヤーは思わず、驚きの声を上げた。
サプライヤーの営業マンの前。ある製品の交渉のときのことだ。
競合を実施する。そのサプライヤーは負ける。次の競合を実施する。またしても、そのサプライヤーは負ける。
いつも負けているサプライヤーだったら良い。それは競合に呼ばなくなるだけのことだ。
しかし、である。そのサプライヤーは以前圧倒的な価格優位性を誇っていたし、集約先であり続けていた。
もちろん、競合結果だけを尊重して、発注先を決めれば良い。
ただ--、集約先として一旦選択したところが競合で負け続けるのであれば、そもそも、そのバイヤーの選択が間違っていた、と認めるようなものだ。
そう。それは、ある競合のとき。
見積りをわざわざ持って来てくれた営業マン。
既に他社の見積り価格を知っていたそのバイヤーは、見た瞬間にそのサプライヤーが再び負けていることを知る。
だから、そのバイヤーは呆れとともに、その営業マンに対してこう叫ばざるを得なかったのだ。
「なんでこんなに高いんですか!!」。
・・・・
そのバイヤーは私だった。
その前に、若干技術的な話をしておかねばならない。
製品はパワーサプライ装置だった。それまでのパワーサプライはモジュール型といって、商品の内部で物理的なスイッチでOnとOffを切り替えるものだった。
それに対して、CPU基板とコネクトすることにより、パワーサプライの主流がATXというタイプのものに移り変わっていった。
そうなると、それまで優位性を保っていたサプライヤーが、とたんに劣位性を露呈しはじめた。
早い話が主流となった技術を不得手としていたために、ひとえに「カスタムのパワーサプライ」と括っても、その領域で全く強さを喪失していったのだ。
言えば簡単だ。しかし、強いと思っていた。競合で負け始めるまでは。
どんな幻想だって、覚めてさえくれなければ、夢を見続けることができる。
幻想が初めて「幻想」になるのは、それが覚めてしまったときに、そう認識され出すからだ。覚めなければ、それは決して「幻想」ではありえない。
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この経験は様々な考えるチャンスをくれた。
大きく分けて二つある。
まず一つ目は、サプライヤー集約などの戦略は、作り上げた瞬間から単なる古新聞にすぎない、という当たり前のことだ。
これは、企業戦略でも同じだ。
誰かが、大きな決断を下す。それが後になって、「成功をもたらした大決断」と賞されることもある。逆に、それが「失敗をもたらした誤決断」と批判されることもある。
そこには、偶然性という要素もある。変化しなくても良い結果をもたらすこともあれば、変化しなければ良い結果がもたらされないこともある。
ただ、この自由経済主義社会においては、どんな戦略も一定ではありえず、いつまでも最適なサプライヤーというものは存在しない。
それを意識しているか否かで、だいぶ戦略の扱い方が変化してくる。例えば、集約だけを盲目的に信じることもなくなり、都度柔軟に考えることができる。
二つ目は、戦略を構築するにあたっては、技術的知識が必要だ、というこれまた当然のことだ。
上記の例で言えば、ATX系のパワーサプライが主流になることなど、少し勉強すれば分かってしかるべきことだった。
そういうことが分かっていれば、それに適合しないサプライヤーを集約先として選ぶことはなかっただろう。
現状の仕様だけを見て、集約先を決定することはできない。
将来の自社製品・技術のラインナップを見据えた上で、戦略を構築しなければいけない。
将来の技術を把握しないで作られた戦略など、現状追従以外のことはない。
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おそらく、こういう話をしていると、「私は事務系だから技術的なことは分からない」と言う人が出てくる。頭の病気お大事に。いや、言い過ぎた。
おそらくこの国の最大の不幸は、文系と理系という区分をしたことだ、と私は思う。
「技術屋だから、人付き合いが苦手で」とか「バイヤーだから、細かな技術を覚えることができなくて」とか。そういう発言は、ほとんどの場合、その人の人格的欠落を補完するための甘やかしとして作用する。
ときに、「あの人って頭が良すぎて、考えすぎちゃうんだろうね」という発言者は、「本当に頭が良い人は、そんなに考えなくても答えを出せる」という事実を知らないことを露呈してしまう。
これまで、私の出会った「優秀な人」とは、文系でありながら理系の知識を持ち、理系でありながら深い人間関係を結べる、越境人であった。
たかが、高校と大学程度で学んだ知識だけで、自分や他人の可能性を狭めるのは止めにしろ。
「バイヤーは、全てを超えろ!!」