私は上司に借りがある
「それは誰の考えだ?」
そのバイヤーは呆れるしかなかった。
これからの購買業務の進め方を提案したときのことだ。
それまで、バイヤーがモノの値段を決めるときに頼っていたものは、(1)前値 (2)コストテーブル (3)設計者のお墨付き の三つのどれかしかなかった。
だから、そのバイヤーは新しい方法を提案したのだった。
それは、ABC管理を実施して、C領域は完全に前値で発注し続け無視すること、A領域は指値で無駄な交渉を避けること、等々だった。
このあたりの話はもっと面白いのだが、本筋ではないので後日書こう。
そのやり方は、これまでのやり方を否定するものだった。
考えてもみよ。前値で発注し続けるだけのゴミ部品に、あえてハンコで「前値同一」と書いたり、「前の発注と同じです」などと書いたりしては時間とインクの無駄である。
また、目標としている価格に届いてもいないのに、「コストテーブル値だから」といって承認することに意味があるのか。
ということを考慮した後の提案だった。
すると、上司はこう言った。
「それは誰の考えだ?」
「それは認められているのか?」
「そういう前例があるのか」と。
だから、そのバイヤーはなぜか怒ってこう言った。
「知りませんよ、そんなの。これは私の考えです。その考えが正しいのか、間違いか教えてください」
・・・・
そのバイヤーは私だった。
提案が通らなかった、とは言わない。
不本意な形ではあったが、徐々にそれまでのやり方を部署全体として変えてきた。
それにしても、「前例は」とか「誰か(偉い人や競合他社)の考えか」とかいうことを気にしている人に多く出会ってきた。
いや、そのことしか気にしていない、そういう人たちである。
自信のある自己流は間違いなく王道に勝る、というのにだ。
「前例を気にするな」という組織ほど、前例にこだわるのではないか、と勘ぐりたくなるほどだ。
それ以外が素晴らしい人であっても、その一言がずっと残ってしまう。
つまり、前例しか気にすることが出来ない人だ、と。
世の中には、自分の頭で考えたことのない人が信じられないほど多いから、何も考えずに出た一言がずっとずっと部下や同僚に残ってしまうことがある。
人に影響を与えることができるか、とは、すなわち、「心に残る一言が言えるか」ということにかかっている。
何の話をしていたかも全く思い出せないのに、一つの言葉だけを覚えていることが人にはよくある。
そのときの状況や主題なんかよりも、一言を覚えている。
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世の中で言われているような、教育など存在しない。
たとえ教育というものが存在するとしたら、それは全身で生き方とその生き方から発せられる独自の人生観、一言を差し伸べることぐらいだ。
かつて私は、私だけが決めた外国サプライヤーのせいで会社に数千万円の損害を与えたことがある。
どんなに怒られてもしかたがない、辞めるのも止むなしか、と思ってその当時の上司に誤りに行くと、その人は一言だけ私に語った。
「深いだろ、調達って。その到達できないかもしれない深さを知ることが、お前が成長しているってことだよ」
普段、あまり感動しない私が感動した。
もちろん、自分の罪を許してくれた、という側面もある。
だが、それ以上に、このひどい状況のときに語ってくれた、まさにその一言に感激した。
その惨状の後に、その一言が添えられたのではない。私の失敗や、惨状が、その一言のために演出されたものかのように感じられた。
私もそれ以来、そのことを意識している。
私は、ある一言がいいたいがために、文章を書いている。それ以外の事例や経験は全てオマケに過ぎない。その一言は、大々的に書いていたり、片隅に置いていたりする。
メッセージがない会話や文章は存在しないのと同じだからである。
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サプライヤーと話すときも、みんなの前でプレゼンするときも、報告書を提出するときも同じである。
一言が相手の胸に突き刺さらない限り、相手の心底に沈み、行動を換気することはないだろう。
何気ない一言が相手に感動を与え、その一言が(まさに私が書いたように)みんなに伝わってゆく。それが原動力となり、また違う相手に感動を与える。
おそらく、これは仕事を単純な金銭獲得の手段としてしか思えない人には理解できないだろう。
さりげない一言が相手に落胆を与え、あるいは勇気をもたらす、ということを実感できないバイヤーにも絶対に理解ができないだろう。
よき言葉が発せない人間は、消えた存在である。
とすれば、人と誰よりも多く会うバイヤーが身に付ける最も重要なスキルは、英語でも小手先の法律知識でもなく、コトバ力である。
「バイヤーはコトバ力を磨け!」