交渉能力の高い無能に捧げるバラッド

「自分のために交渉しているんです!!」

そのバイヤーは驚いた。

そのとき、バイヤーは、「調達部員のための折衝技術習得講座」なる研修を受けていた。いや、受けさせられていた。全員強制参加だったのだ。

研修というものが役に立つときは、その研修に (1)想像もつかぬ内容が盛り込まれていること、(2)業界のトップの人材が講師をつとめていること、(3)参加者のレベルが高い、のうち二つが盛り込まれている必要がある。

その条件には合致していない研修でのことだ。

まずは最初に参加者(全員バイヤーだ)が自己紹介をしましょう、ということになっていた。

すると、参加者の一人が、自己紹介の制限30秒をはるかに破りこう言うのだった。

「私は小さい頃から交渉ごとが大好きで。この仕事に就いたのも幸運だなと思っております。交渉ごとが難しければ難しいほど燃えるんです」と。

加えて、こうも言った。

「つまり、私は自分自身のために交渉しているんです」

それを隣で聞いていたそのバイヤーは、驚き、呆れた。

いや、哀れにすら思っていた。

他のみんなが全員、「そりゃ素晴らしい」と感心している傍らで、そのバイヤーは、こう思った。

「交渉が大好きだなんて、なんて古臭い、そして時代錯誤な、最悪のバイヤーだろう」と。

「まずは、この研修に行かないでよいように交渉をしてみろ」とも。

・・・・

そのバイヤーは私だった。

交渉ごとに燃える、とは現代風に書くのであれば「萌える」が正しいのかもしれない。

いや、そういうことはどうでもよかった。

バイヤーに交渉力なんてものが必要なのか、と常々考えている。

それを、「あつかましさ力」とか「ずうずうしさ力」と言い換えるなら賛成しても良い。しかし、単にゴネるだけのことを指して「力」などということに常に違和感を持ってきた。

いや、これは単純に言葉の遊びではない。

なぜ、そもそもバイヤーに交渉力などというものが必要なのか、そしてなぜバイヤーに求められるスキルのトップに「交渉力」が、もっとどうしようもない「英語力」などとともにリストアップされ続けているのだろうか。

私は以前、誰かが「バイヤーにとって重要なのは、交渉力だ」と言っていたとき、面白い冗談だ、と思って笑ってしまった。しかし、どうやらそれは冗談ではなさそうだった。

そもそも交渉を必要とする場面を作り出したこと自体が能力の劣っている証拠ではないのか、という指摘すらも聞いてもらえない。

・・・・

真実を知れば誰だって自信家になれる。

交渉力なんてなくても、真実を知っていれば、それを正々堂々説くだけだ。

相手に自分の真実を語り、納得させるだけの構築力があれば、何も必要ない。

考えてもみよ(と言って考えてくれる人は少数で、多くは文章の続きを読んでくれるだけだろうが)。

まず最初にRFQ(見積り依頼)を行う。

そして、その条件を呑むサプライヤーが見積り書を提示してくる。

その後、バイヤーはサプライヤーの中から厳格に選別し、発注先を決める。

発注する。

製品が納品される。

このどこに交渉の必要な場面があるだろうか。

おそらく、交渉が必要になってくるときとは、よほど予想外のことが発生していない限りは、「要件の曖昧さが放置されっぱなしだった」か「最初っから相手に無理な依頼しかできていない」のどちらかだろう。

交渉力なんて必要どころか、いかに交渉ごとを減らしてゆくかを真剣に考えていくべきなのだ。逆ではない。

・・・・

もちろん、ときには小学校レベルの日本語を解さない営業マンから意味不明な要求をつきつけらることもある。

しかし、それを蹴散らすのは、交渉力ではなく、説明力である。毅然とした態度である。

ものごとの道筋を示してやる力、それは無理に納得させるのではない。

真実は常に人に優しい、からだ。

私は交渉ごとが大嫌いだった。だから逆説的に、いかに交渉ごとを減らすかばかりを考えてきた。好きな能力を伸ばすよりも、嫌いなことをいかに減らすかに注力した方が、ずっとずっと成果が上がることがある。

交渉が嫌いな人が購買部に集い、その中で「交渉をせずともスムーズな取引を実現できる」仕組みを考えたほうがずっといい。

これは夢想家のボヤきだろうか。それとも、狂人のタワゴトだろうか。

笑うなら笑え、と思う。

おそらくそういう人たちは、一部の先端業界では、バイヤーと営業マンが対面する回数は年間たったの2回である、という事実を知らないのだろう。

「バイヤーは交渉をやめろ!!」

 

あわせて読みたい