今は昔じゃない、だから現場から出ておいで
「今の人は現場に行かないからなあ」
あるOB会で元バイヤーからそう聞かされて、「またか」と目の前の若手バイヤーは思った。
思い出話が始まると、必ず「俺の若いころは、生産現場に張り付いて、モノの製造を手伝ったりしたものだ」という自慢にも似たフレーズが繰り返されるからだ。
齢60を超えている人の思い出話に付き合わないほど非礼ではないその若手バイヤーは、その話をずっと聞いていた。
「その話3回目ですね」というツッコミも我慢した。
「現場にたくさん足を運んだ結果がこのザマですか?」と皮肉も我慢した。
「今ね、若手に足らないのは、現場を見に行くことだと思うんだよ」とおそらく昭和初期から繰り返された若者説教のワンフレーズがまた述べられる。
「例えばね、プレス加工とか、外作の工程とか、そういうのって実際に見ないと分からないことがたくさんあるわけよ」とご老体は語るのを止めようとしない。
「いや、確実に今の方がいいですよ。昔のやり方なんて古すぎる」と若手バイヤーはささやかに反論してみた。
すると、そのご老体はこう怒るのだった。
「現場を知らない奴が何を言うんだよっ!」と。
またしても良い経験をしたな、とその若手バイヤーは思った。
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そのバイヤーは私だった。
「現場に出よ」と言っている私が現場を否定する気は、もちろんない。
私が言いたいことは、「現場に出れば見えることも見えなくなることもある」ということだけだ。
最近、行き過ぎた現場軽視の反動だろうか、あまりに現場重視の主張をする人が多いように感じる。
かなり話が矛盾するようだけれど、現場に出なくたって、真剣に想像すればたいていのことは分かる。
殺人を犯したことのない人だって、一流のミステリィ作家になっているではないか、という比較は強引だとはいえ、結果としてその殺人の描写が「良く書けている」と評判を博すことは多い。
ここで注目すべきは「誰も殺人鬼の心理など分からない」のに、「良く書けている」と思うことだ。
人は信じていることしか信じない。自分が「これは本当っぽい」ということこそ本当なのだ。
もっと言えば、それが「本当ではない」など、一体誰が決められるというのか。
以前、私のコスト低減の事例が全社的に取り上げられることになった。「どのようにコスト低減を推進したのか」という原稿の締め切りまでたったの4日間。
しかし、内容は単純に競合で下げただけ。
それでも、単に「競合で下がっただけ」とは言い辛いから、既存品と比して何が安いのか、という理由を書かねばならなかった。出張して現場確認をするには時間が無さ過ぎる。
だから私は、図面を比べて、全て想像で書いた。材料費の歩留まり向上から、人員の削減、動線の改善によるアッセンブリー秒数の削減まで。
すると、その内容が「非常に現場を知り抜いている」ということで、賞までもらった。
おそらく、現実とはこの程度のものであるらしい。
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加えて、もう一つ言っておかねばならないことがあるとしたら、それは「昔のほうが良かったなどということはない」ということだ。
どう冷静に考えても、客観的データを基にしても、現代の方がほかのどんな時代よりもマシである。
紙見積りの時代を思い出してみよ。
エネルギィの効率が悪く、非生産的だった生産現場を思い出してみよ。
非熟練工では、まともな製品ができなかった過去を思い出してみよ。
着実な改善と改良の前に、どの顔で「昔は良かった」などと語れるのか。
もちろん、回顧主義で、自己の生きてきた道を無批判に賛美するのは許してあげても良い。
しかし、それと、客観的な優劣は全く別のことである。
ここで話を戻すならば、やはり「人は自分が信じたいことしか信じていない」となる。
不景気なんて一度も感じたことがなく、好景気も全く感じたことのない若手が、ニュースや周囲の声につられて「バブル再燃だなあ」なんて言っていたりする。
そんなものはない。
少し考えれば分かることだ。
たいていのことは考えれば結論が出る。
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セミナーにたくさん行っても、考える力を伸ばさなければ意味がない。
本を書くにも仕事をこなすにしろ、現場で感じることよりも、頭で考えた仮説力が大切になってくることは少なくない。
そこで重要なのはイマジネーションだ。
全ては、「こうなるはずだ」というイマジネーションから出発する。
イマジネーションによるひらめきと、仮説の構築がなければ、どのような驚きも発見も見つけ得ない。
私は「こんなことよく思いつくね」と言われたら、「考えれば思いつきます」とだけ言ってやる。
机上の空論はむなしいが、空論すらない場合、実践は無と化す。
「バイヤーは夢想家になれ!」