日本テレビ「スッキリ」水卜麻美さんについて

・ある食事の場面で

数年前。

何のキッカケかは忘れたものの、食事の場で、私は「スッキリ」でご一緒している水卜麻美さんに質問したことがある。「何か野望はあるんですか」と。

答えは意外なものだった。

「なんか、まわりを笑顔にしたいんですよね」

水卜さんは、あれほど広大で濃密で聡明な時間を過ごし、言葉という力で社会を拓いておきながら、もっと単純な生への衝動を失っていなかったのだ。私は彼女の中に、ひどく生々しいものを感じた。いや、正直にいえば「いや、そうじゃなくて、ご自身の活躍とか、そういうことですよ」と訂正したかった。

しかしそれは、自分の運命を切り開こうとする彼女の姿勢からくる輝きであると、のちに私は知ることになる。私は彼女の眼の奥を知りたい感情に駆られた。きっとそこには、刹那に近い輝きが感じられるはずだった。

私の記憶では、その発言を水卜さんは二回ほど繰り返したと思う。彼女の眼は、私の瞳孔を通り越して光り続けていた。花の魅力の一つは、自身の美しさにまったく気づいていないことにあると私は思うが、彼女は何を考え、なにを見つめていたのだろう。

・情報番組と現代の不幸

個人的な話になるが、私は日本テレビ「スッキリ」と、地方局を含め二つの情報番組に定期的に出演している。なぜ人はニュースを必要とするのだろうか。それは、生と時間の奔流のなかをかすめる旅行者にすぎないと知りながらも時代と手を結び合わせる存在でありたいのではないだろうか。

現代の悲しみは、効率ばかりを求める社会の傍らで、不幸が停滞することにある。事件が起きるとメディアはいっせいに取りあげるが、一瞬を過ぎるとその不幸に付き合ってはいられぬとばかりに離れていく。視聴者も変わらぬ日常を生き続ける。誰も、一つの悲しみだけに時間を止めようとはしない。

こう書いたといって、私の免罪符になるわけではない。私も、たんに悲しみを社会に流布する者にすぎない。

悲しみが起きたとき、被害者の誰もがそれに社会的な意味を求める。偶然が重なり起きたにすぎない事件が、社会に気づきをあたえ、そして改善の道程を経ると知ったとき、そこにささやかな意味を創出する。

だから情報番組の参加者は、多様な提起が必要とされる。誰かは、加害者からの謝罪を求める。誰かは、社会制度の構築を求め、誰かは社会意識の変化を求める。

近代以前は、事件や不幸に神の訓示を感じ取った。しかしいまは、事件や不幸の報道を通じて、人間性や社会への認識を深める。そこで必要なのは、伝える側の繊細さにほかならない。

・水卜さんの笑顔について

他者が、あるいは自分が属する組織が、これほど自分のことを理解してくれないのだと認めるのは苦痛である。その葛藤を誰もが感じながら、しかし社会は現代人に、つねに笑顔でいることを強要する。

その葛藤を味わずに生きることはできる。組織や仕事から離れればいい。「人生はこんなもんだ」と自分のなかで納得した人の顔は、すべてやわらかく、人生の回帰を受け入れている。ただ、いっぽうで、組織や仕事から離れずに、矛盾のなかで葛藤している人の見せる一瞬の逡巡に私は心を打たれる。

何かの理想に向かって生き、そして悩みと迷いのなかで生を肯定できるようになってから、ひとはゆっくりと笑うことができる。そこに何らかの欺瞞があれば、見ている側は気づく。それくらい視聴者は馬鹿でも間抜けでもない。

人を傷つけないで、私たちは何らかを報道することができるのだろうか。私たちに答えはあるのだろうか。殺人事件を扱った数秒後に、笑顔でエンターテイメントを伝えることができるのだろうか。

そこには深い迷いがある。そしてその超越の果に、それでもなお「まわりを笑顔にしたい」という想いによって、その笑顔は構築される。

・仕事と刹那

私が若い頃、尊敬する先輩から「お前は何のために仕事をしているのだ」と繰り返し問われた。「お前は何のために仕事をしているのだ」とは、世界へどのように関わっていきたいかを問うことと同時に、問うている本人さえも律している。身を削らなければ、ものごとに正面からぶつかることはできない。その過程で、さまざまなものを代償にせざるをえない。

仕事への愛も熱情も、どちらも今の箇所から自分を遠い場所へ連れて行く。その過程で、甘いところでとどまっている周囲からの別離も生まれる。ぬぐいきれない悲しさや人との別れには、しかし、新たな道程の匂いがほのかに匂い立つ。

水卜さんは「スッキリ」を卒業する。

愛とは別れの別名である。愛は、対象を愛するゆえに、そこにとどまることを許してはいない。水卜さんの笑顔は、人気者ゆえに、番組を移りゆく、刹那に近い輝きを示しているのではないだろうか。

私は、もはやそのようにしか信じることができない。

あわせて読みたい