10年を振り返った感傷的な日誌

10年前、私は栃木の田舎にいた。そこで、何かを文章の形で紡ぎ続けていた。そこから、会社を辞め、次の会社も辞め、その過程で子どもができて、考えもできなかった仕事をこなすようになってきた。関係がないと思われるかもしれないけれど、私の個人的な経験を書いておきたい。そして、無関係のように見えるこれらのエピソードから、将来にむけた話も書いておきたい。

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子どもができたとき、赤ん坊を見つめていると、突然、私の全人生は今、終わったのだ、ここで切り離されてしまって、今からなんの準備もないまま新しい何かに一歩踏み出してしまったのだ、という気がしてきた。病室で、両親が私の息子を見たとたん、両親の口から動物的な、としか表現できない音がもれた。この光景が、彼らの心のひどく原初的なところに触れ、そのためにあんな音を発したのだろう。まるで何かに心臓をつかまれたような感じだった。私が仕事の上でどんな功績をあげたにしても、孫の姿が両親に与えたような感動を彼らにもたらすことはできないという事実に、私はこの瞬間気づいた。

二人は妻のそばに身をかがめ、話しかけた。そこには他人の目を意識するぎこちなさなどみじんもなかった。両親は私が初めてこの世に生まれてきた時の、自分たちのことを思い出しているのだ。そう思うと胸がつまった。

男と女が子どもを作る。しばらくの間はこの世に三人しか存在しないような気がする。三人の親密さは完璧に思える。それが次に四人になる。だが、年月がたち、子どもを育て、早く一人前になるようにとせきたてるにつれ、親子のあいだに距離が生じる。子どものために良かれと思ってすることが、いつのまにか最初にあった親密さを自分たちからはぎとることになってしまうのだ。私と両親の場合、私のせいで、親子の距離は時にはたいへん隔たっていた。

だが、突如としてそこに孫が出現したのだ。口に出してこそいわなかったが、父と母が孫の中に彼らが三十五年前に見たのと同じものを見出してことは明らかだった。二人が二度とふたたび見ることはないと思っていたものを、この子のなかに見ているのだ。両親は食い入るように孫を見ていた。時間と愛情を取り戻していたに違いない。

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澄み切った空。乾燥した空気。隣から聞こえる芝刈りの牧歌的な音。

「いつ、アメリカに来るんだ?」。隣のデイブが訊いた。
「できれば2、3年のうちに。仕事が見つかればいいけれど」と私はいった。

デイブはアイルランド移民の二世で、妻には中国からの移民の女性ニーナを迎えていた。私は前職でデイブと関わることがあり、私が仕事を辞したあとも、機会があるたびに会う機会を設けていた。私は、いつかアメリカに住みたい、とデイブに夢を語りながら、実現させることができずにいた。

2011年の5月。仕事の休みをとって、私はアメリカ・コロンバスのデイブの家に遊びにきていた。バーベキュー用のグリルがセットされた庭に簡易椅子を二つ作って、デイブと私はアメリカの政治から文化、そして、大げさにいえば、今後の人生についてとりとめのない会話を重ねていた。

「実は、3番目の家を探している」。デイブは教えてくれた。「売ることを前提にこの自宅も購入した。だから、自分たちには子供もいないのに、ベッドルームが3つもあるだろう」

デイブは妻のニーナがより広い家に住みたがっていることと、リーマンショック後の地価下落局面では、底値で自宅を購入することの優位性を私に教えてくれた。

「アメリカ人は、現時点の自宅を終の棲家と考えていない」。デイブは、子供を育てたあとは、気候の温暖なオーランドでゆっくりと暮らすことを夢見ていた。

そのころには、デイブは何件目の家を購入することになるだろう。

「日本人の家は狭い」。日本に滞在歴もあるデイブは、私にそう語り、「アメリカに来れば、同額でこの家に住める」と後の建屋を指さした。デイブは3本目のビールを空けようとし、私に勧めてくれたが、私は遠慮がちに断った。

なぜだか、あまり酔わなかったことを覚えている。

隣の家では、まだ17時だというのに父親が帰宅し、子供と芝刈りをして楽しそうに笑っていた。幼い子供がバットを振り回し、母親は遠目で眺めていた。たしかに日本ではもう見ることのない光景がそこには広がっていた。
ひたすら働くだけの自分が急に虚しくなった。

日本では、みな住む場所の制約を受け、仕事の制約を受け、妥協と諦観のなかで日々をすごしている。

しかし、日本人はみな、その不遇を所与として生きるしかないのだろうか。また、ほんとうにアメリカと日本の絶望的なほどの格差を解消することはできないのだろうか。日本かアメリカかの二項対立しかないのだろうか。その解決策は、国家を移動することでしかありえないのだろうか。

空のビールのラベルには「Blue Moon」と書かれていた。「めったにありえないこと」を意味する言葉だった。
私はそこから、自分がどこにいても豊かな生活ができることは「Blue Moon」ではないだろう、と願い、そして模索してきた。

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会社がなくなる、という経験をした。正確には、登記上はなくならないものの、全員が散り散りになる解散だった。一人、また、一人がいなくなっていった。みんな、ダンボールや紙袋を手にしていた。もう誰もやることがなくなっていた。多くは、取引先に最後の挨拶を書き、それも終わり、あとは何もなかった。

私は一人で、近くのバーに行って飲んで、なんとなく、街をぶらついていた。私が一人でバーに行くことはほとんどない。しかし、なぜか、私は会社に戻らなければいけない気がした。なぜか、私は自分でそこにいなければならないように思われた。

私はいまの仕事ができることを幸運だと思っている。文章を書く人間は、なんらかの意味で、自分自身が代替不可能だと信じている。自分しか書けない何か。私は子どものころに多くの雑誌を読んで育った。書籍も読んだ。そして、まだ見ぬ未来を想像した。もしかしたら、私の文章を読んでくれ、さらに感動してくれる子どもたちがいるかもしれない。書き手は、ずっと永遠の青春を生きている。文章を書くときだけは、心のなかで伝えたい対象を、興奮しながら伝えようとしている。

話を戻す。がらんとした会社に戻った。当然だが、電話はない。机すらない。空虚だけがそこにあった。ある種、自分が信じ、闘ってきた何かの結果がそれだった。もしかすると、これから世界のどこかで多くの少年たちが、闘い続けた結果、おなじような状況に陥ってしまうかもしれない。社員は全員が去っていった。だが、私だけはまだそこを立ち去ることができなかった。

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これまで無数のひとたちに出会ってきた。さらに、仕事が広がるにつれ、通常では出会わない分野とも接点をもった。出会ったひとたちのなかには、途中で夢や目標を諦めてしまうひともいるにちがいない。敗退するひともいるだろう。自分が思ったよりもうまくやれない場合が大いにちがいない。そして、彼らは、そのときになってようやく、自分たちがかつて思いに描いたほど遠くに行ける運命にないと知るだろう。

この厳しい現実を、そして実際を、人間というものは受け止めなければならない。もちろん、毎日のようにそんなことを考える必要はないけれど。

このような文章を書く際、なぜか、最後は前向きに書きたい衝動に襲われる。それはビジネス系の書き手の宿痾といってもいい。ただ現実は、不可解で、理屈を超えて、善悪も、すべてを超えている。きっと、みなさんにも、想像もつかなかった将来がただただ待っているんだろう。

私たちは、その運命をただただ受け入れるしかない。

それでは私たちは、なぜ努力や学習の必要性があるだろうか。それは、思いがけない出来事ではく、その他大部分を支配しようという、せめてもの抗いである。1割の思いがけない出来事はある。そして、その1割の出来事が、人生を激変させることもある。

しかし、それでもなお、私は残り9割の出来事をコントロールできるように努める。それは人間としての、せめてもの営みではないだろうか。もちろん、それは弊履と化すかもしれない。喜びをもたらさないかもしれない。「でも、生きてるなら」という態度。

現在では、すべてをコスパと効果を測ろうとするひとたちであふれている。「この金額を投資したら、効果はどれくらいか」と訊かれても、学習効果や文化との触れ合いを、定量的に表現できるはずはない。できるとしたら、それはまやかしにすぎない。だからこそ、私は「何になるかはわからない。それでもなお、新たな学びや、新たな体験を重ねようじゃないか」と私はいいたいと思う。それは、残り9割に携わるための、ささやかな試みである。

いや、もはや私は、自分の存在意義を、そのようなものとしか、もはや信じることができない。

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