調達業務のリスクマネジメント~東日本大震災の教訓 1章(2)-1
3月12日の朝。多くのメディアは特別報道番組を放送し、被災地の様子を映し続けていた。少なからぬ番組のコメンテーターからは「未曾有」「1000年に一度」というコメントが発せられていた。CMには企業のそれが消え去り、代わりにACのものが繰り返し流されていた。
茨城県で勤務していた藤田渉(仮名)は朝早くから工場に出勤していた。道中、屋根や壁が損壊している家屋を多く通り過ぎた。見たことのないほど地面が割れていた。路面は隆起していた。火災で煙が上がっていた。あらためて、自分は無事なのだ、と思った。
藤田のサプライヤーは茨城県および近隣県に集中している。まずはサプライヤーの従業員の安否、建屋・設備・在庫の被害状況を確認せねばならない。電話をかけてはつながらず、電話をかけてはつながらず。2、3時間の作業を続けた。対象のサプライヤーの三分の一も連絡がつかなかった。特に東北および茨城県北部のサプライヤーは電話を何度かけても弊履と化した。
同じころ、西城はなんとか戻った滋賀県のオフィスでエクセルとにらめっこをしていた。茨木北部、栃木、福島、岩手に拠点をもつサプライヤーを洗い出すためだ。西城も藤田と同じく電話をかけつづけたものの、ほとんどつながらなかった。少なからぬサプライヤーは土曜日といえども、メールを送ってきてくれていた。ただ、重要管理サプライヤーとは何十回も電話をかけることによって、連絡を取ることができた。時計は20時になっていた。
緊急時には電話で状況を確認することになっていたとしても、今回のような未曽有の震災時にはその電話がつながらないことが多い。それは関西でも同じことだった。
翌週14日。大阪のオフィスで勤務していた長万部太郎もサプライヤーに電話をしても電話がつながらない、またつながったとしても、窓口の営業マンが全容を把握していなかった。