2章-4 モチベーションゼロの仕事術
たとえば、図の①を想定しよう。このゾーンは、愉しくないし、元々やりたくもなかった仕事についた場合だ。それに対比させたのが、③で、愉しいし、元々やりたかった仕事についた場合だ。しかし、この例で二つの仕事を分かつものとして、「お金になる・認められる」を仮定した。
①の、愉しくないし、元々やりたくもなかった仕事であっても、モチベーションがなくても、仕事をこなし、成果をあげれば、思い込みのプロセスが生じていく。つまり、「おっ、この仕事って愉しいし、それに、これを元々やりたかったんじゃないか」という勘違いである。この勘違いこそ、かけがえのない愉悦を与える。
いっぽう、③は、愉しいし元々やりたい仕事に就いたのはよいが、それがお金にならずに認められない事実によって、愉しくないし、元々やりたくもなかったと思い始める。もちろん、最初から②に就ければよいだろうが、それはごく一部の限られたひとたちだ。
このようにお金を基準とすることに違和感を抱くひとが多い。ただ、実際にまわりを見ても、金銭的な承認や報酬のない状況で、やりたい気持ちを持続できるひとなどほとんどいない。
先日、イラストレーターのひとと会った。「ワンカット3000円なんです」と彼女は教えてくれた。一日に5カット書いても、1万5000円。それを月に20日やっても、30万円だ。もちろん、それほど継続して受注できはしない。最大でも30万円だ。「それでやっていけますか」と失礼な質問をした私に、「好きでやっていますからね」と静かに答えた彼女。私は「また、『好き』かよ」と思った。その後、編集者からは彼女は「違う道を歩むみたいですよ」と聞かされた。
いまの社会では気持ちが最優先される。いい大人でも仕事の相談をすると、「それは、お前がやりたいか、やりたくないかが問題だ」と答えるひとがいる。すべて、気持ちが必須事項というわけだ。そこには、間然できないような強固さがある。
ただ、ひとの気持ちなど、すぐに移り変わる。子供のころの夢と、いまの目標が異なっていることは普通だろう。「やりたいかどうか」を唯一の基準にしてしまうと、「やりたくありません」と言われると、もう説得材料はない。「やりたいかどうか」を判断軸にしてしまったとすれば、「もうこの仕事にやる気がありません」と述べる社員を引き止める術は持ちえないだろう。
この「やりたいかどうか」重視観には、一つの誤謬があるように思われる。それは、「気持ちが最優先」ではなく、正確には「いまの気持ちが最優先」ということだ。長期的にはやりたいことに変わる可能性のある仕事を、いま、だけを重視するがあまり排除してしまう。私が、いまの気持ちではなく、いまの目の前の仕事に集中せよ、と書いたのはそのためだ。
きっと、いまの仕事の成果が出始めれば、それが愉しくなり、元々やりたかったかのように勘違いしだす。そのためにも、いまのやる気やモチベーションの欠如を理由にしてはいけない。
やる気やモチベーションがなければ仕事ができないとすれば、それはそのひとのなかで、やる気やモチベーションが仕事を止める言い訳になるからだ。たんたんと仕事をこなすひとは、「求められること」を優先する。やる気がなくても、この仕事はやらねばならない、と思う気持ちは、自己愛ではなく他者愛に支えられている。