1章-13 モチベーションゼロの仕事術
時代の要請によって必要とされた「やる気」や「モチベーション」。それらは、前章でも書いたとおり、ないよりはあったほうがいい。ただ、それらを持ち得なかったとしても、また持続させられなくなったとしても、問題はない。もともと、時代が創出し、ひとびとが幻想として抱いている程度のものだ。
私はこれまで頁を割いて、モチベーションが創出された経緯を、時代背景とともに描いてきた。それは各種のデータを提示したかったためと、もうひとつは、モチベーションがなければいけないと思う気持ち自体が絶対的ではないと示したかったからだ。
時代がどうであれ、環境がどうであれ、やるべきことが変化するわけではない。目の前の仕事にぶつかり、工夫とともに成果をあげ、それによって食う点では変わるところがない。必ずしも「やる気」や「モチベーション」を持つ必要はないし、仕事で「夢」や「自己実現」を成就する必要もない。そう考えると、逆説的な安心になるとと私は思う。
それは、夢を捨て、絶望を感じろ、ということではない。
逆だと私は思う。
たとえば、「仕事での自己実現」をことさら強調するひとがいる。仕事選びに「やりたいかどうか」を基準とせよ、というひとがいる。彼らは、ひとりの人間が永続的に同じ感情を抱き続けると仮定した点で間違っている。「自己実現したい像」も「やりたい内容」も、数年ごとに移り変わることが普通だ。それに、「やりたい」だけを仕事の選定基準にしてしまうと、「やる気」ごときで仕事を変えることになる(加えて、「自己実現」を勧めるひとは、それを実現してしまったあとのことは語らない。ここに誤謬がある。ただし、本章ではこの問題には立ち入らない)。
ある時点で「やりたくない」ことのなかから、将来的に「やりたい」ことが出てくることがある。忌避していたことのなかに、将来の糧になることがある。ただ粛々と仕事をこなせば、いつかその仕事が面白くなってくることがある。私は新卒のあとに就いた仕事が嫌いだったといった。しかし、ただただ仕事をやっているうちに成果をあげ、いまではさも「これがやりたかったことだ」と語ることもある。さらに私自身もそういっているうちに、「ほんとうに自分はこれをやりたかったんじゃないか」と思い込むこともあるほどだ。自分を見失うことが人生の醍醐味なので、これは良いことだ、と認識している。
成功者の本を読んだり、尋ねたりすれば、必ず「自己実現したい像や、なしとげたい夢を抱け」と語っている。しかし、私が接する限り、その多くの肝要は、成功したのちに「あ、オレってこれがやりたかったんだ」と勘違いするプロセスにある。現時点で成功している事業を特別にやりたかったわけではないのに、成功して振り返ってみれば、「これこそが成し遂げたかった夢だったんだ」と思い込むのである。もっといえば、誤解である。
ただ、これはまったく悪いことではない。すべての成功譚にはこの誤解が紛れこんでいる。成功者の話を聞いても、その成功には偶然や運や、細かな条件が絡み合っている。だから、成功法則の一般論は役に立たない。そして、さきほど説明したとおり、心の持ちようは、なおさら役に立たない。これが世の中の成功本を読みあさり、多くの事業家と接した私の結論である。