愛のない仕事のほうが、仕事のない愛よりも大切だ
「愛のないセックスのほうが、セックスのない愛よりマシだ」とい
ある。この「セックス」を「仕事」と置き換えてみたらどうだろう
ない仕事のほうが、仕事のない愛よりマシだ」となる。
まだ不況続きで、会社員の月給やボーナスが減ったり、不本意な異
たりしているという。どうも、会社員にとって、環境とは与えられ
あり、愚痴の対象でしかないようだ。たしかに、周りを見渡せば、
利益減を不況と金融危機のせいにするだけで、自らは無策な営業マ
たくさんいる。
バイヤーだって同じことだ。不況になって住宅ローンの支払いが滞
とか、娯楽費を削減せざるをえないとか。仕事上で、お金の支払い
ェッショナルだったはずの職業人たちが、私生活のことになると陥
ている。
だから、そのなかで、どのように工夫しているのか教えてほしい。
本来は創りあげるものであるはずが、どうも所与のものになってい
ただ、このまま論を続けることは私の趣味ではない。もちろん、汲
いるバイヤーたちもいるだろうが、努力してもどうにもならない状
のだろう。
そこで、冒頭のフレーズに戻る。
「愛のない仕事のほうが、仕事のない愛よりマシだ」
多くの人のモチベーションが下がっている時代だという。これまで
ち続けていた対象(=仕事)も、年収減というリアルの前には、そ
建前など吹っ飛んでしまったのだろう。
しかし、である。
それほどまでに、仕事に愛やモチベーションなどは必要だろうか、
だ。このことを私は繰り返し言ってきた。モチベーションや愛など
淡々と粛々と物事をこなすことこそ、ほんとうのプロに第一に求め
のではないか。
愛とは、自分の思い込みにより対象を純化させる尊いプロセスのこ
思いを包摂することによって、対象を、ほんとうの価値以上に信じ
をいう。それは決して悪いことではない。むしろ、その意味での「
は人間にとって必要不可欠ともいえるのだろう。
しかし、その思い込みが強すぎるがゆえに、人はときに大きく失望
れまで信じていた会社、これまで信じていた組織が、ちょっとでも
えると、裏切られたような気がするのだろう。ただ、それでも仕事
である。愛がなくなったとしても、仕事はある。私はこの仕事とい
れ自体を愉しまずにはいられないのである。
どんなに仕事への情熱や愛があったとしても、仕事がなければおし
る。だから、つべこべいわずに、目の前の仕事をしろよ、である。
「愛のない仕事のほうが、仕事のない愛よりマシだ」
だから、後輩がいる人には、このフレーズを伝えてほしい。どんな
あっても、どんなに最低な状況であっても、仕事があるということ
が素晴らしいということを。そして、愛の有無にかかわらず軽やか
いく方法があるということを。
しかし、バイヤーには二種類いるように思われる。仕事への侮蔑の
る種の愛情が感じられる人と、仕事への愛情のなかにある種の侮蔑
れる人がいる。前者は、「こんな仕事くだらない」といいながら、
ない」がゆえに、そのくだらなさを少しでも減じるために一所懸命
いう人たち。そして、後者は、自分の仕事がたいそう立派であると
分の成果を吹聴してしまうバイヤーである。
前者は、逆説的な意味で、仕事に対し真摯に取り組むだろう。仕事
ない。「だからこそ」と、自分の意識を転換できるからである。そ
て、後者は、これまた逆説的ながら、仕事上の少しの変化に敏感に
う(給料減とか、不本意な左遷とか)。その変化に愚痴を言い、不
もらすだろう。前者は、「愛のない仕事のほうが、仕事のない愛よ
と心の底で思っているがゆえに、この不況という変化を愉しめるだ
者は、本気でモチベーションとか愛とかいうものを仕事に求めるが
会社の些細な方向転換を許せないだろう。
私は流布している意味で、モチベーションとか愛とかいうものを論
定したいわけではない。それは単純に私の趣味にすぎない。それに
質はおそらく変えることができないものだろう。ただ、みんな、仕
を抱きすぎだと、私は思う。仕事に愛とモチベーションを探す試み
に失敗する。「ほんとうの自分」というものに、もっともふさわし
どありはしない。もともと「ほんとうの自分」なんてない。
あるのは目の前の仕事だけである。「自分さがし」ではない。「自
こそ重要なのだ。はい。仕事なんてそんなもんだから、もう愚痴な
て、さっさと目の前の仕事にとりかかろう。明日の生産の調達品の
に合うかな? 夢や理想より、目の前のことに注力しよう。そして、そのク
ールな視点こそが、逆説的な意味において、バイヤーを輝かせる近
私は思う。愛にあふれた仕事よりも、愛のない目の前の仕事のほう
倍大切だ。(坂口孝則)