連載「2019年から2038年まで何が起きるか」(坂口孝則)

*2019年から2038年まで日本で起きることを予想し、みなさまのビジネスに応用いただく連載です。

<2038年①>

*この連載も最後の2038年を迎えた

・未来予想をあえて語るということ

未来予想というのは、ほとんどがむなしい。というのも、未来予想は過激なほどいいが、それほど劇的な変化は起きないからだ。たとえば20年前を思い出してほしい。スマホやIT機器類の進化はすごい。もちろん自動車も何もかもが進化している。ビットコインなどの仮想通貨は世界を変えた。ただ、それでもなお、漫画や小説で描かれるようなレベルではない。

多くのひとは、いまでも、いつでも、朝起きて食事をして、満員電車に揺られ、上司がストレスで苦しく、取引先とトラブルに翻弄され、愚痴を言いながら酒を飲む――といったことをいうと、「テレワークが進んでいる」とか「転職も盛んになった」とかいわれる。変化がないとはいわない。人類先端の数パーセントは生活を変えただろう。ただ私の視点は、残り99パーセントにある。世界じゅうの田舎で暮らすひとたちをマスとしてビジネスの相手と考えるならば、激変する数パーセントを考えるよりも、激変ではなく、そこそこ変化する残り99パーセントを考えたほうがいい。しかし、最後、この節では、禁忌をやぶって飛躍した未来予想を語ってみたい。2038年はいまから20年後にあたる。そこで、これから20年の潮流を語ってみたい。

その潮流とは、等身大カリスマの誕生から、教祖消費ともいうべき流れであり、そしてビジネスの構造を変える人生のDIY化である。

・見えない宗教の登場

現代人は近隣のひとたちとの接触を通じてではなく、パソコンやスマートフォン、タブレットを通じて自ら欲する情報と出会う。そしてネットを通じて「教祖」に帰依していく。まるで宗教のように。それまで宗教的な活動は、永劫の帰依と献身を求められた。しかし現代にはそれほど”捨て身”の姿勢は重たすぎる。むしろ聴講者として、あるいは消費者として、その情報発信源に接するのが”ちょうど”いい。

社会学者のトーマスルックマンは著作(『見えない宗教』)で、教会に代表される旧来的な宗教から、個人的側面を強めた宗教「見えない宗教」が登場したと指摘した。もうそれは約半世紀も前のことだ。

この「見えない宗教」においては、テーマは個々人の悩みに立脚し、さまざまにいたる。「ワークライフバランス」「仕事、キャリアの成功法則」「配偶者との処世術」などだ。そこでは、かならずしも科学的な法則は必要とされない。第一に必要とされるのは、情報の受け手にとって、情報を発信する側が信頼に足るか、そして信じてみたいか、という点にある。

私が思うに、「これが正しい」とか「これが善だ」といった尺度は、もはや人間を動かす動機になっていない。真偽や善悪は、もはや建前だけの世界にとどまっている。これからひとを動かすのは、「これを信じてみたい」という衝動に似た、心の揺れだけだろう。

そして情報の発信者側にとっても、自身が語る法則を真理として述べるのではなく、「自らが実践して効果があった」という、すくなくとも他者が否定できない事実をもって、弁証しようとする。そして「見えない宗教」においては、ことさらスピリチュアリティが強調されることはなく、むしろ漂白され、実用レベルでの有効さが強調される。

企業での勤続年数が数年となり、誰もがコーポレートヒストリーを知らないようになる。理念などほとんど覚えてはいない。むしろ、その見えない宗教コミュニティの所属年数が長くなる。

・見える宗教の実用性

ビットコインなどで有名になったブロックチェーン技術は、取引の記録を、それに参加するコンピュータで保存する。よって改ざんが防止されたり、あるいは、マネーロンダリングを抑制できたりする。

ブロックチェーン技術がより広がってくると、土地の登記情報などに使われる。国によっては、土地の権利情報が勝手に改ざんされ、土地を剥奪される。しかしブロックチェーン技術があれば人権も蹂躙されないだろう。また、取引の記録がすべて記録されるならば、消費者は商品のサプライチェーンにおける参加者を把握できる。たとえば、私は悪いとは思わないものの、食品製造は中国なのか韓国なのか。あるいは衣料縫製はバングラディシュか。

搾取される構造ではなく、適正なコストを払って生産したものか。意識的な消費がより芽生えてくる。ブロックチェーン技術とは無関係だが、たとえばアパレルブランド「Everlane」では各商品の製造コストを細かくホームページで公開している。さらにその情報公開の姿勢そのものをアピールポイントにしている。この動きは加速するだろう。

そして、そのように莫大に広がっていく情報空間のなかから、何を正解とすべきか。そこには、教祖の断言が必要となる。発信者たちは、サロンのような小宇宙を形づくる。発信者が意図せざる場合であっても、「見えない宗教」が個人的な人生訓をベースに組織に変容していく。それが信者ビジネスだとか新宗教といわれることに、心底、発信者側は否定したがるだろう。それはそこのカリスマが不誠実だからではない。誠実すぎるゆえに、そして信者ビジネスなどと考えもしないゆえに。

しかし、新宗教の教祖はたしかに必要とされている。社会人たちの悩みは、いまだに職場の人間関係と給料、仕事内容に集約される。就職活動支援企業は、社会に羽ばたく若者たちへコマーシャルを流す。綺麗なオフィス、美男子でハキハキした先輩、笑顔で美人の女子社員、そしてエネルギッシュな上司。やりがいのある仕事。活躍しているあなた――。実際には、少なくとも私は見たことのない、そのような光景がCMとして成立すること自体が、そういう職場(=幻想)を求める作り手たちの願望を射影しているものともいえる。

そして、働き始めてからは「終わりなき日常」に拘泥されることになる。もちろん、美男子と美女だけの職場が存在するかもしれない。ただ、仕事というのは、いくら理想があろうが、実際には泥臭い作業と、面倒な人間関係に支配される。私たちが必要としているのは、社会革命家ではなく、また夢想家でもない。この状況を、共感してくれ、さらに打開案をくれる、身近な存在だ。

私は「モノからコト。そして、コトからカタ」あるいは「モノからコト。そして、コトからヒト」に移行していると考えている。まさに、教祖たちが、楽しく会社で漂うやりカタや、厳しい社会を自分らしいやり方で勝ち抜いていけるやりカタを語ってくれるとしたら、これほど頼もしいことはない。

・見えない宗教の目的

その「見えない宗教」で触れた有名人たちのサロンなどでは、とはいっても、拝金的な説法を聞かされることはほとんどない。むしろ、新たなビジネスやスキル、能力開発について、貪欲なほどさかんな議論がなされる。

これまで旧来宗教は、争・貧・病を救うとされてきた。そして、その争・貧・病のただなかにいる状況であっても、人生の意味を感じるべし、という教えは、不遇を正当化する働きをもってきた。その体制を批判的にとらえ、変革運動につなげようとする動きには乏しかった。

その意味では、「見えない宗教」が平和的に、自己の改革を目指そうとし、かつその先に社会をよくしようという気持ちをもつのは、特徴的だといっていい。また、旧来的な宗教がひとを救うのは、死後の場合が多い。よく知られている通り、原始仏教では、輪廻の輪から抜ける、抜けないにかかわらず、すくなくとも死後の世界に答えを見つけようとする。キリスト教も原罪からの解放は死後となっている。争・貧・病から離れた私たちは、いま、現世利益的な即時性を求めている。それは必然だろう。

<つづく>

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