「シン・ゴジラ」とメタファー(坂口孝則)

文章を書いてお金をもらうようになったとき、「これは○○のメタファーだ」と書いて偉そうに断言する夢が叶いました。メタファーは隠喩を指します。芸術作品は、作者も無意識のうちに時代の無意識をとじこめます。だから何をメタファーといってもいいのです。

ということで今回は映画『シン・ゴジラ』のメタファーを暴きます。どこまでが私の妄想かは読者にお任せします。まず、初代『ゴジラ』は水爆実験のせいで生まれました。当時、ゴジラの存在は、国民感情のメタファーとなっています。他国が水爆実験をやったのに、攻められ犠牲になるのは日本です。しかし文句をいっても無力でゴジラに踏み潰されるしかありませんやっと復興した街並みも、いつ消え去るかもしれない。その意味で、ゴジラの甲高い泣き声は戦中の空襲警報のメタファーなのです。

そして初代との類似点が指摘される映画『シン・ゴジラ』もメタファーの宝庫です。もちろん今回のゴジラは、東日本大震災と原発事故のメタファーになっています。ゴジラの顔がにこやかなものから、凶暴にいたるのは、メルトダウンと認められなかった原発事故が一転、戦後最大規模の惨事に「進化」したメタファーとなっています。

今回、ゴジラの身長は117メートルになりました。初代の50メートルにたいして倍以上の進化です。これはビルのサイズにあわせたというよりも、高度なメタファーと読み解くべきでしょう。人類の英知(=ビル群)を、軽々と破壊しうる未知(=ゴジラ)がいる、と。

また初代は東京タワーを破壊しました。映画界のテレビ業界への対抗を意味しましたが、今回はあえて狙ってまで破壊するほどではないと判断されました。時代のメタファーです。

ところで、映画『エイリアン』における異星人は赤ちゃんのメタファーでした。傍若無人に立ち振舞い、危害も与えてくる。どう扱っていいかわからず苦労してしまう。まさに赤ちゃんは新人ママにとってエイリアンなのです。その意味で、ゴジラも歩き始めの赤ちゃんのようにも見えます。ただ、初代はすり足と、ガニマタ歩きを基本にしました。今回は、野村萬斎さんの歩きをキャプチャーしたことから、狂言を意識しています。狂言での歩きは、すり足が基本です。そして、狂言とは庶民の生活に密着した笑いだったと忘れてはなりません。

映画『シン・ゴジラ』では官僚機構と政治家が侃々諤々の議論を重ねます。しかもまどろっこしいほど会議で手続き論を続け、対策は遅々とします。しかし、これはもはやコメディなのだと壮大なメタファーが仕掛けられている。そう理解すべきだろうと私は思います。

なお、同作ではキーマンの牧教授が遺したセリフ「好きにしろ」が謎かけになっています。これは映画『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)のメタファーでしょう。というのも、その作品でなんとゴジラは、キングギドラと闘おうとするモスラに「勝手にしやがれ」といいます(これは比喩ではありません)。しかしゴジラはやはりモスラを見捨てられずキングギドラと闘うのです。

『シン・ゴジラ』の監督は、鬱状態になりながら特撮と格闘した庵野秀明さん。庵野さんはゴジラに自らを重ねています。次はエヴァンゲリオンをやはり撮るのだ、あの作品を見捨てられないのだ、と。私は最大のメタファーをそこに感じたのです。

<了>

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