連載6回目「日本人はこれから何を買うのか」(坂口孝則)
・弱者=正義の時代
このところニュースを見ていると思うのは、弱者はもはや正義という意味と同義、ということだ。社会にはさまざまな弱者がおり、かつては女性で、貧者で、病人だった。彼らが被害やハラスメントを訴えるとき、もはや私たちは反論のすべをもっていない。
たとえば極端な例が、オールドネイビーにまつわる問題だ。同社に対して、不正だとする署名がインターネット「www.change.org」を通じてなんと9万5000人以上も集まった。そしてオールドネイビーをはじめとする各社は、この著名を無視できずにいる。では、この著名の主張は何か。それは「女性のビッグサイズ服を高く売るな」というものだ。
読者の想像どおり、痩せ型の服より、大型の服のほうがコストは高くなる。当然ながら、表皮の量も異なるし、縫製の長さも違うし、在庫管理コストも異なる。だから大きな服は高くなる。しかし、Sサイズ、Mサイズ、Lサイズくらいは価格が均一だし、むしろそう設定されている。とはいえ、ビッグサイズは、その許容量を超えている。だから、オールドネイビーがビッグサイズの服を高めに設定しているのはわからなくはない(なお、通常サイズのジーンズRockstar Super Skinny Jeansは27ドルで、ビッグサイズは40ドルだ)。
ではなぜ「女性のビッグサイズ服を高く売るな」というのだろうか。ここで、主張を見てみよう。「たくさんの表皮を使えば、製造コストが高くなるの(more fabric equals higher cost of manufacture)」のは理解しているのだが、「しかしそのくせに、大きなサイズのジーンズを欲する男性には小さな男性と同じ価格で販売する(However, selling jeans to larger-sized men at the same cost as they sell to smaller men not only negates the cost of manufacture argument)」から許されないという(!)。つまり、オールドネイビーの価格政策は性差別的であり、これを是正するのがグローバル企業の当然の道義というのだ(!)。
この署名運動が一定数の賛同者を得てオールドネイビーに訴えたのは2014年11月のことだ。なお、これにたいするオールドネイビーの反応はいまのところ控え目なものだ。同社は返品を認めるとしており、価格自体に変更はない。それはやはり製造コストの違いだという。
ここは現代の問題を象徴している。なぜ、消費者は「それならば買わない」「無視する」といったていどの強さを持てないのだろうか。あるいは、極端にいえば、店を破壊する、といった行動を取れないのだろうか。「私たちは、あなたたちの行為を酷いと思います」という、内面的な行為が、相手にもっともダメージを与える手法になっているのだ。
これは考えるに恐るべきことではないだろうか。直接的に殴るよりも、「私がこう思います」「私たちは深く傷つきました」という発露のほうが、相手を深く傷つける手段なのだ。これは、おそらくもともとは、そのような倒錯した手段をとらざるをえなかった弱者の発明だったに違いない。しかも、極限状態で偶然に見つけたに違いない。
たとえば、2011年にウォール街前で実施されたハンガーストライキは、考えるほど奇妙な抗議手法だった。格差社会に対抗して採られた手段だったものの、なぜ、自らが傷つくことが、相手への最大の抗議となりうるのだろうか。
現在では、誰かに殴られるよりも、はるかに誰かに「傷つきました」といわれるほうが効果的な闘争方法なのである。おそらく、話はそれるものの、SEALDsなどの運動も、その観点から解釈されるべきだろう。
そこで重要となるアイコンは何か。もちろん、「あなたの痛みは正当だ」「あなたの傷は、誰もが感じている」「その痛みや悩みや苦境を共有しよう」というアイコン、教祖、等身大のカリスマにほかならない。
・等身大カリスマの誕生
以前の連載で通信費の伸びを提示したとおり、現代人は近隣のひとたちと接触を通じてではなく、パソコンやスマートフォン、タブレットを通じて自ら欲する情報と出会う。それまで宗教的な活動は、永劫の帰依と献身を求められた。しかし現代にはそれほど”捨て身”の姿勢は重たすぎる。むしろ聴講者として、あるいは消費者として、その情報発信源に接するのが”ちょうど”いい。
社会学者のトーマスルックマンは著作(『見えない宗教』)で、教会に代表される旧来的な宗教から、個人的側面を強めた宗教「見えない宗教」が登場したと指摘した。もうそれは約半世紀も前のことだ。
この「見えない宗教」においては、テーマは個々人の悩みに立脚し、さまざまにいたる。「ワークライフバランス」「仕事、キャリアの成功法則」「配偶者との処世術」などだ。そこでは、かならずしも科学的な法則は必要とされない。第一に必要とされるのは、情報の受け手にとって、情報を発信する側が信頼に足るか、そして信じてみたいか、という点にある。
私が思うに、「これが正しい」とか「これが善だ」といった尺度は、もはや人間を動かす動機になっていない。真偽や善悪は、もはや建前だけの世界にとどまっている。これからひとを動かすのは、「これを信じてみたい」という衝動に似た、心の揺れだけだろう。
そして情報の発信者側にとっても、自身が語る法則を真理として述べるのではなく、「自らが実践して効果があった」という、すくなくとも他者が否定できない事実をもって、弁証しようとする。そして「見えない宗教」においては、ことさらスピリチュアリティが強調されることはなく、むしろ漂白され、実用レベルでの有効さが強調される。
その発信者たちは、サロンのような小宇宙を形づくると述べた。発信者が意図せざる場合であっても、「見えない宗教」が個人的な人生訓をベースに組織に変容していく。それが信者ビジネスだとか新宗教といわれることに、心底、発信者側は否定したがるだろう。それはそこのカリスマが不誠実だからではない。誠実すぎるゆえに、そして信者ビジネスなどと考えもしないゆえに。
しかし、新宗教の教祖はたしかに必要とされている。社会人たちの悩みは、いまだに職場の人間関係と給料、仕事内容に集約される。就職活動支援企業は、社会に羽ばたく若者たちへコマーシャルを流す。綺麗なオフィス、美男子でハキハキした先輩、笑顔で美人の女子社員、そしてエネルギッシュな上司。やりがいのある仕事。活躍しているあなた――。実際には、少なくとも私は見たことのない、そのような光景がCMとして成立すること自体が、そういう職場(=幻想)を求める作り手たちの願望を射影しているものともいえる。
そして、働き始めてからは「終わりなき日常」に拘泥されることになる。もちろん、美男子と美女だけの職場が存在するかもしれない。ただ、仕事というのは、いくら理想があろうが、実際には泥臭い作業と、面倒な人間関係に支配される。私たちが必要としているのは、社会革命家ではなく、また夢想家でもない。この状況を、共感してくれ、さらに打開案をくれる、身近な存在だ。
内閣府の「国民生活に関する世論調査」(平成26年)によると、働く目的について「お金を得るために働く」が半数を超えているのは健全だとして、「社会の一員として、務めを果たすために働く」よりも「生きがいをみつけるために働く」が上回っている。また、理想の仕事について質問したものでは、「自分にとって楽しい仕事」が一位となっている。
私は「モノからコト。そして、コトからカタ」あるいは「モノからコト。そして、コトからヒト」に移行していると述べた。まさに、教祖たちが、楽しく会社で漂うやりカタや、厳しい社会を自分らしいやり方で勝ち抜いていけるやりカタを語ってくれるとしたら、これほど頼もしいことはない。
<つづく>