ドラッカー「マネジメント」を読み返す(坂口孝則)

*2016年5月27日の講演速記より

<前半>

ドラッカー「マネジメント」は、「もしドラ」を引用するまでもなく、現代のマネジメント語る上で欠かせない本です。もし可能であれば、この本読んでいただきたいと思います。ドラッカーが、この本で何を語っているかというと(信者には怒られてしまうかもしれませんが)こういうことです。

・人を動かすには組織の存在目的を知らしめる必要がある。
・そして存在意義から、事業の目的をはっきりさせ、その場で働く人たちに動機づけを与えることが優れたマネジメントである。
・マネジメントは、固定的な考えを持つべきではなく、状況やあるいは自社の変化に追随しながら人々を導くものだ。

もちろんこれらの原則に間違いはありません。ドラッカーへの反論として「マネジメントなんて不要ではないか」というものがあります。すなわち、メールやSNS 、あるいはLINE などのメッセンジャーアプリが溢れていますから。事業トップくらいは必要だとしても、中間管理職などは不要ではないか、というものです。また、全情報を共有化すれば、各社員が自発的に動くと可能ではないか、というひともいます。まあ、こういう批判です。

この批判に関しては、そうだとも言えるし、そうではないとも言えると思います。もちろん一部の会社や業界では中間管理職がいらないということはありえるでしょう。しかし例えば建築とか建設現場で、各プロジェクトごとに現場監督という名のマネージャーが必要なのは事実です。そこで、プロジェクトの目標や目的をはっきりさせ、スケジュールを立て、そして各人を動かすということが必要であるのも間違いありません。

したがって、すべての組織で、ドラッカーの考え方が当てはまるかどうか別として、大半の組織では、やはり部下あるいは同僚動かす力=マネジメント力は必要であるというわけです。ドラッカーのマネジメントを読み返すと、その先見性に驚かされます。

この初版は1973年です。その時点で「市場動向のうち、もっとも重要なものが人口構造の変化である(26ページ)」と言い当てています。そして、後年「イノベーションのジレンマ」と呼ばれる、”革新的な商品を作り出した会社ほど、それ以降の改革が遅れる”といったことまで見事に指摘をしています。独占禁止法が存在していなくとも、ある一定以上に企業が大きくなるのは賢明ではないということを指し示していますが(30ページ)、これはその後、発見された「市場シェアの最適理論」とも合致する考え方です。

そして戦略についても、これ以上ない明確な定義を伸び述べています。<あらゆる種類の活動、製品、工程、市場について、「もし今日これを行っていなかったとしても、改めて行おうとするか」を問わねばならない。答えが否であるならば、「それではいかにして一日も早く止めるか」を問わねばならない。さらに、「何を、いつ行うか」を問わねばならない(39ページ)>としています。

68ページにある日本企業での成功例は、現在から見るとやや褒めすぎのように感じます。しかし「あらゆる人間しかもトップマネジメントまでが、退職するまで研鑽を日常の課題とする」という指摘は、日本企業だけではなく全ての企業で当てはまるという意味において、重要な指摘でしょう。また、「組織のあらゆる階層において、意思決定が何を意味するかを考え、責任を分担することが期待される」などといった指摘は今でも大切でしょう。

そしてドラッカーのマネジメント論を語るにあたって、極めて重要な一文がこれです。「マネジメントはもともと権力を持たない。責任を持つだけである。その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限を持つ。それ以上の何ものも持たない(79ページ)>という言葉です。考えるに、権限と権力の混同によって、マネジメントがふさわしくない結果を導いてしまうこともあります。

あえて、ここで話を俯瞰します。ドラッカーが考えていたのは、こういうことでしょう。

・かつて体を動かす労働というものが支配的だった。
・そこにやってきたのが、フレディック・テイラーの「科学的管理法」だった。
・労働者を人間というよりも、物体、あるいは対象として捉え、それがいかに効率的なアウトプットを出しうるかを模索した
・これは人間を相手にアウトプットを向上させようとする、すなわち改善技法の嚆矢だった
・しかしドラッカーが指し示していたのは、将来には体を動かす単純労働ではなく、多くのホワイトカラーが知的労働に関わるようになる。
・フレディック・テイラーは否定されるものではなく、ただし、新しい時代の知的労働者のための管理手段が求められ
・そこでは単純な目標設定だけではなく、人びとが内発的に働こうとする仕組みが必要だった
・社会的責任など、単に会社の利潤・利益追求のためではない、高次な目的が必要で、それが生産性とって重要だった

したがって、ドラッカーの今日的意義や、あるいは、ドラッカーが語りえなかったものを指し示すことは、すなわちドラッカーが想定していなかった未来の変化は何か、そしてその手法に当てはめることができないことは何だったのかを指し示すことです。

例えば、最小限の組織を作ったり、京セラの言葉で言うと「アメーバ組織」のような、動きやすい有機的な組織について、すでにドラッカーは本書で述べています。ここでもトラッカーの先見性を驚愕せざるを得ません。例えば190ページには固定的な組織を良しとせず意思決定をいかなるレベルで行うか、それにフォーカスを開けた上で組織変更の方法についても書かれています。

さらには、現在問題となっている取締役会についての問題も言及しています。一言で言えば取締役会が機能していないということです。取締役会は、そもそも社長などに対して意見を申し、必要に応じて方向性を修正したり新たな道筋を作り上げたりするものです。が、考えてみるに取締役が注目されていると言っても莫大な会社内データの中から、ちょっと聞いただけで新たな問題をえぐることができるはずがありません。ダイバーシティという名のもとで様々な取締役を社外から招いたとしても結果は同じです。これら冷静な分析あるいは冷静な予想という意味においてもドラッカーは、他の追随を許しません。

また、働く相手が正社員ではなく外部社員が中心になることや外部企業が中止になることも、ドラッカーは予想しており、新しいマネジメントの意義としてはその外部へ成果を求めることであるとも書かれています。現代的な問題はドラッカーによって網羅されているように感じなくもありません。

<後半>

では、私が考えるに、あえて言えばドラッカーが語ることができなかった点は何でしょうか?

それは、目標そして目的の設定そのものにあります。

今、グローバル化が進んでいます。そうすると10数年前であれば、とはいえ日本人が優秀だと言えたところ、やはりアジアの人材やその他の国々の人材が優れているという事態は、やはりあります。そのとき、無理に目標や目的を高く設定してさらによりよい生産効率を目指すべきでしょうか。もちろん、そうしても良いのですがゴールは違うところにあると思います。

それは、他部門への異動という意味ではなく、あるいは違う事業への参入という意味でもありません。それをしたとしてもグローバルな競争が徹底する以上は、その分野の中で優秀か優秀でないかが決まるだけのことです。他人材との競争は免れません。では、どうすればよいか。

ここから、かなり抽象的なることをお許しください。私が思うに、これからのホワイトカラーに求められるものは、そもそも「目標とか目的といった形で設定をするのができないい。いや、設定をするのが野暮なくらいのもの」です。やっぱり抽象的ですよね。すみません。もう一歩、説明すると、「言語化できない、とにかく凄いというもの」と思うし、そうならざるを得ないわけです。

大げさに言えば、感動とか、芸術と言い換えてもいいかもしれません。つまり「なんてすごいことするんだ!」とか「なんていうこと思いつくんだ!」といった仕事が求められているのです。卑近な例で言えば私たちは「The調達2016」という小冊子を作りました。この小冊子は、もちろん内容にもこだわりました。が、何よりこだわったのはそのデザインです。そして何よりも衝撃が伝わるようにしました。

「ちょっとこれ見てみ」とか「ちょっと、これすごいから手に取れ」といったような、口コミが起きるレベルのものです。私たちの冊子でいえば、もしかしたら内容の一つ一つを吟味すれば、他の書き手の方が良いかもしれません。あるいは同等レベルのこと書いてるものはあるかもしれません。

しかし、この調達とか購買という世界で、このようなデザインや意匠で作り上げた冊子は他になかったはずです。これは旧来の目標とか目的管理では成し得ないことです。ちょっと以上に、予想をはるかに超えたところに、目標設定がある。いや、そもそもその目標設定ということ自体、これからは、定量化数値化できないわけですが。

私はこれを新たな問題と捉えています。そして、私のなかの認識では、処女作の「調達力・購買力を身につける本」で書いた内容以降、ほとんど変わるところはありません。

<引用はじめ>

・これからのバイヤー

私たちは様々な価値が混在する世界に生きています。「汗水たらして頑張る生き方」が美化される一方で、中国では汗水たらして1時間働いても100円にしかならない職場はたくさんあります。と思えば、「買いたくなければ、買ってくれなくてもよい」と原価100円のチップを5万円で売りつけフェラーリに乗っているハイテク企業もいます。その事実を前に、日本で「汗水たらして働くこと」を美化する人たちは、自身の子供が中国で働いて低賃に甘んじることを許容できるでしょうか。

私たちは、ときに時給100円の労働者を使うサプライヤーから製品を調達し、ときに5万円のチップを売ってもらうために頭を下げて調達「させていただく」ことになります。ここで善悪の問題は論じませんし、私にその力量もありません。事実がただそこにあるだけです。

話をあえて逸らします。ちょっと書いたように、私は様々な人からメールマガジンの感想を頂くことがあります。上場企業の役員、結婚退職してしまった元バイヤー、中国の調達コンサルタント・・・これらの人々が共通して書いてくれることに気づきました。それは「あなたの物語に共感した」ということです。

知識でもスキルでも高尚な理屈でもなく、「物語」。これは私を唸らせるのに十分でした。物語――、私が本書で色々書いてきた節々に自分の経験を挿入したのは、私の物語をご自信の物語に照らし合わせて読んでいただきたかったためです。これから人を動かすのは知識ではなく、物語ではないか。共感ではないか。という確信がありました。

私が感じる限り、現代では「これが正しい」とか「これは間違っている」とかいう議論はもはや人を動かす原動力になっていないようです。「これは善いことだ」とか「これは悪しきことだ」という議論も同様に人を動かしえません。人を動かしているのは、「これを信じてみたい」という賭けにも似た感情の昂りです。

私は遠まわしに思われても、自分の経験、等身大から語ることを止めません。それは逆説的に、物語を読者に注入することで、人を動かす近道になると信じるからです。

ここで話を戻しましょう。時給100円の作業員と原価の500倍でチップを売りつけるサプライヤーの話です。前者ができずに、後者ができることは何か。それは、その人の「特有性を売ること」にほかなりません。前者は世界中の誰でもやれることをやっているだけ。しかし、後者の仕事は取替えが利かないために商品を高く売れるわけです。

そうだとするならば、バイヤーは何をすべきでしょうか?

本書での議論をまとめて言うのであれば、「これからのバイヤーは、安く買ってくることが仕事ではない。価値を見つけてくるのが仕事だ」ということになります。安く買ってくることは、もうちょっとで機械が可能にしてくれるかもしれません。完全に代替することはできないかもしれません。しかし、効率化はできます。これまで10人必要だったところを5人でよくなるでしょう。さらに、机を叩いて安くしているだけのバイヤーであれば、机を叩いてくれる、それこそ外国人労働者をその給料で5人雇った方がマシです。

・最適購買を超えて

これからのバイヤーは、もちろん「つまらない仕事」を断ることはありません。むしろ、基礎をしっかり勉強した上で、その仕事をいかに早くこなせるかに夢中になるでしょう。そして、その経験をいかに活かすかという活路を見つけることを楽しむでしょう。隙間に、自分しか見つけることのできない価値を探し出すでしょう。それはもちろん簡単ではありません。チャレンジングで、かつ心躍らせることです。でもやらねばならない。

まさに今、労働の形態が変わろうとしています。これまでのような単純な時間売りの報酬形態はなくなっていくはずです。これからは、価値をいかに創造できるかが重要になってきます。

コストだけではなく、将来の製品価値を査定でき、それを社内に提示できる能力が求められているのです。通常のコストテーブルで原価をはじくと100円もしないような製品でありながら、5万円もしてしまうコアチップの先進性を自ら受け入れ、自社の最終製品の魅力度すらも左右させるような心眼が必要になっています。

これは言いすぎでしょうか?それとも単なる妄想でしょうか?笑ってはいけない、と思います。誰もちょっとやればできるような仕事であれば、確実に東南アジアにシフトしていくからです。労働を奪われるのがブルーカラーだけのはずがないからです。

そんな時代がすぐそこまで来ています。

これまでバイヤーが他部門に勝っているのは、たかが英語力と多少契約書の知識が分かることだとされてきまた。そんなものは英語と契約が当たり前になった今、なんの優位性も発揮しません。それに今の時代、英語が話せる設計者などいくらでもいるでしょう。

これからは、バイヤーそれぞれが人生的蓄積の中で培った、「自分にしか分からない価値」を市場の中から探さねばなりません。そして、その「価値」がいかに自社の最終製品につながっていくかをこれまで以上に真剣に考えることになります。

自分にしか見つけえない価値を調達・購買という形で自社に引き入れ、自社の製品として昇華させ、社会に出回ったとき。それは、バイヤーという個人を訴えるということにほかならなりません。自分の感動を、大きな世界の中で具現化するということにほかなりません。 

それが可能になったとき、これまで言われてきた「最適購買」という言葉の範囲には収まらないでしょう。それは、「感動購買」ともいうべき新たなバイヤーの姿です。

調達・購買の新たな可能性があるとすれば、そのような形としてしか、私はもはや信じることができません。
- バイヤーは最適購買から感動購買を目指せ -

調達力・購買力を身につける本」より

<了>

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