坂口孝則の「超」調達日記(坂口孝則)
0.3%という面白い数字がある。たとえば、全国の同学年は100万人いる。そのなかで東大に入学するのはトップ0.3%の3000人だ。年収が3000万円を突破するのも、労働人口のうち上位0.3%だ。それに、年間100冊ほどの読書をこなす人口も上位0.3%だ。
この統計の厳密さに私はさほど興味がない。もちろん、日本国民全体を追跡できない以上、曖昧さは残る。ただ、読書家が0.3%と、年収3000万円以上が0.3%というのも、なんだかうなずける。富裕層マーケティング事業を手がける知人に聞いてみたところ、「高所得者に読書家が多い」のは事実らしい。面白いのは「ただし年収が億を突破するひとは、むしろ読書家が少ない」ようだ。どう解釈してよいかわからない。限界点を突破できるひとは、読書に頼らずに動物的勘や行動力に優れているということか。
ただ、裏を返せば、それなりの地点(年収3000万円は「それなり」以上だとは思うが)であれば読書がプラスに作用するらしい。
そこで、話は速読に戻る。まず話したいのは、速読ではなく、その大概念である「読書」についてだ。ここから読書の効用ではなく。読書の具体的手段について述べていく。この節の結論をいおう。読書は「読むこと」ではなく、「買うこと」がもっとも難しい。
何よりも、本を買い続ける必要がある。それは、たとえ読めなかったとしても、次々と家のなかを本で埋める必要がある。スペースがもったいない? それならば、本を次々に捨てていくか、あるいは自炊すればいい。とにかく本を買うことが重要だ。
私が読む限り、速読や読書をススメる書籍のなかで、本を買うこと自体を強調するものに出会ったことがない。図書館で借りるのはダメだ。とにかく買う。そのうち、未読の本があふれるかもしれない。ほんとうの問題はスペースではなく、お金を使い続けることへのためらいだ。
これは、エコロジーとか、そういう問題ではない(あたなが買おうが買うまいが、その本は刷られている)。札束を燃やす勇気がないひとは、おそらく成功できない。もっとも重要な自己投資に、たかだか2万円(本を月に20冊買ったとしてもこの程度だ)を自分に払えないひとは、相当な幸運の持ち主ではないかぎり将来への扉が閉ざされている。
本を読む時間がない? 月曜日から金曜日まで、会社の上司だとか、社内関係者だとか、お客だとか、他人のために働いているのに、もっとも重要な「自分」のために、一日たった数十分も確保できないのだろうか。すくなくとも、お金くらいは自分に使えないのだろうか。
本を買って、そのなかの2行だけの情報しか得られなかったとしても、良しとすべきだ。読めなかったとしても、「タイトルを眺める」だけで新たな発想が生まれる可能性に賭けなければいけない。
冒頭で、本を年間100冊以上読むひとは、人口の0.3%しかいないと述べた。可能ならば200冊でも、300冊でもいい。それくらい、誰もがやらないことをしない限り、99%の負け組に入ってしまう。
あえて極端にいうと、「99%の大衆は敗北者」なのだから、それから抜け出すためには差別化が必要だ。
「お金がないから、お金ができたら本を買うよ」とおっしゃっているあなた。お金がないのに、なぜ飲みに行くお金はあるのだろうか。あるいは借金することはできないのだろうか。私は月の手取りが15万円くらいのときから、すべてを自己投資につぎ込んでいた。貯金がすっからかんで、何年続けてもダメだったら、そこから頭を丸めて再スタートすればいい。
私なんて、何も現在の地位に固執しない。でも、ダメになっても、あなたには莫大な知識のデータベースがある。貯金はあふれているけれど何も知らないサラリーマン氏と、貯金はないけれど将来を生きるに莫大な知識を得たサラリーマン氏と。どちらが可能性あるかは問うまでもない。
誰も超能力で自分の道を切り開くことはできない。具体的なスキルや能力、知識で開かねばならない。
具体的行動指針:
1.仕事で課題や問題にぶつかったら、まずは書籍を調べる(あなたが悩んでいることは、たいてい先人たちも悩んで、答えを出している)
2.関わる書籍は、基本的にすべて購入する(読み逃すリスクのほうが大きい)
3.読まなくても、買い続ける(一つの目安は、一つの本棚がすべて未読になるくらい)
このうえで、速読とは技術というよりも、必要に迫られたときの「当然の対処法」であることがわかってくるだろう。