論語を読まずに論語を語れるか(坂口孝則)
・孔子は安全な思想家なのか
最近、論語ブームが続いている。「ビジネスに使える論語」「子供に教えたい論語」さまざまな切り口で論語を紹介する書籍が増えている。みなさんも一冊くらい持っているかもしれない。有名なところでは、齋藤孝さん、そして苫米地英人さん(笑)などが論語の解説書を出版している。
ところで、私は論語愛好家で、何度も論語を読み返している。最近の論語解説本を読むと、「ほんとうに論語を読んで書いているのだろうか」と疑問に思うことがある。きっと原典にあたっていないのだろう。
おなじくニーチェの解説本についても同じことを思った。ニーチェの解説書もたくさん出版されている。ただ、その多くがニーチェの真の思想を理解していると思えなかった(例外は、永井均さんの手によるニーチェ解説「これがニーチェだ」くらいではないだろうか)。
孔子は儒教の祖として知られている。儒教では年長者を敬う。ゆえに、孔子とは古くさい家族主義をうたった思想家と考えられている。孔子は、安全で道徳心にあふれた教えを説くひとだ、と。まず、そこが一番の間違いだと私は思う。孔子とは、歴史上かなり危ない思想の持ち主であった。しかも、それこそが孔子の魅力だった。
私は空海と孔子とイエスキリストが三大哲学者と考えている。その三者に共通するのは、一般的に思われているよりもはるかに危険で、根源的な価値観の転換を狙っていた。
孔子(「論語」)で有名なのは、「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして、心の欲する所に従えども、矩を踰えず」であろう。
ただ、これ以外にも面白い言葉にあふれている。
ここからは、すべて「論語」からの引用である。
・孔子の彗眼と卓見
「何事も、それを知っているというだけでは、それを好むというような人の力には及ばない。何事につけても、好むよりは、それを楽しむ者が上である」
これは職業論として、いま流行のポジティブシンキングに近いことを言っている気がする。「論語」には、このような仕事論にあふれており、これをパクれば本が書けるほどだ。
「八方美人、すなわちあらゆる人からよくいわれることがよいのではない。善い人からは好かれ、悪人からは憎まれる。それが正しい人間である」
また、上のような人生論も味わい深い。ゲーテ、シェイクスピア、論語、聖書には、人生論のほとんどが書き尽くされているといってもいい(現代の自己啓発書など、それらの変奏曲にすぎない)。
ただ、これよりも惹かれるのは、孔子の人間観だ。
「若者はおそれなければならないが、四十歳五十歳になってもその名が世間に聞こえないようならば、これはもうおそれるに足らない。人は、四十五十に達するまでの努力が重要である」
ここには、単なる平等主義ではない冷徹な目がある。しかも、能力格差の肯定ではなく、努力の肯定である。ただ、世間に認められているか、認められていないかのみを盲信するわけではない。次のような言葉もでてくる。
「多くの人が憎んでいても、必ず自分自身で確かめる。多くの人が好いていても、必ず自分自身で確かめる。世評だけで、人物を評価判断してはならない」
この、ときに矛盾するかのようにすら思える言論。さまざまな論点と観点に飛び回る言説こそが、孔子の魅力を形作っている。孔子の魅力は、ひとを能力や努力によって区別することだ。それは差別主義者を意味しない(私は必ずしも差別を悪いとは思わないが)。ひとの違いを、事実として冷静に見つめる態度があるだけだ。
「世の中をよくするために悪党を全部殺したら、などと考えるのは大きなまちがいである。政治の目的は人民を生かすことにあるのだから」
たとえば、上のように優しく語ったと思えば……。このようにも語る。
「一般庶民が政治について議論しなければならない状況は、好ましいことではない。もし、国にりっぱに政策が行われているならば、庶民は政治批判などしないものだ」
国民全員参加型の政治とは一線を画するものだ。しかも、庶民についてここまで語っている。
「女子と小人とはとかく養いがたく、救いがたいものである。近づければ恩になれて図に乗り、遠ざければうらむ」
もちろん、「女子」「小人」とは比喩である。くだらない奴、という意味で読むべきだろう。ここには博愛主義とはまったく違う、冷たい孔子像がある。
そして、孔子が単なる博愛主義者や道徳者ではない箇所がある。私は、この箇所が「論語」のなかで一番好きだ。
「理不尽なしうちを受けたばあい、これに徳をもって報いるのを立派な態度とする人があるが、わたしはちがう。そういう非道に対しては、公平な判断でその非道に相当する報いをすべきであり、徳にこそ徳をもって報いるべきである。これが公正を保持できる方法である」
ここでキリスト教との違いが明らかになる。「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」とするキリスト教と相いれず、孔子はむしろ「非道には非道で立ち向かえ」と言っている。目には目をのハンムラビ法典にすら近い。
孔子はひととして美しく生きる「徳」を絶対視し、それに反するものたちへの暴力も肯定した(とあえていってしまおう)。
現代では、孔子のこの暴力的なしかし抗いがたい魅力が伝わっていない。これらの点なくして孔子の魅力はわからない。
何かが流行するとき、ぜひその原典を読んでいただきたい。すると、まったく違った像が浮かび上がることが多い。それはキリスト教でも、イスラム教でも、創価学会でも同じだ。単に礼賛することや批判することはたやすい。ただ、少しの手間で、解説書には語られないものが手に入るのである。
ちなみに、古典さえ読めば、ビジネス書も自己啓発書もいらないよ。
ほんと、ほんと。