作られた「やる気」と作られた「モチベーション」(坂口孝則)
・経済成長と私たち
1955年から2008年までの名目値の国内総生産(GDP)の伸びをグラフ化してみた。暦年統計で、1955年に8兆3695億円しかなかったGDPは、1971年には80兆7013億円と、10倍になった。そのあとも上昇を続け、1990年には442兆7810億円にいたった。
<縦軸は倍数。クリックすると大きくすることもできます>
ただ、多くの人が知っているとおり、1990年代初期から中盤にかけてのバブル崩壊によって成長は横ばいとなり、近年では前年比マイナスになった。
企業の業績は、「その企業の舵取り」と「市場全体の成長」に左右されるといわれる。もちろん、前者を否定するわけではないが、後者の戦後日本の異常な経済成長率に多くは支えられてきた。
極論ではあるものの、日本にビジネスの拠点を設けている限りは、「何をやったって儲かる」状況が続いていたといえる。放漫経営であれば倒産することもあっただろうが、経営者も社員も、日本株主資本の波に乗れば、多少の失敗をカバーすることもできた。
社員は仕事をするほどに会社の成長につながり、そしてそれが報酬となって戻ってくる。前年比何割も給料が上がり続けていた時代であれば、自分の頑張りが成果としてダイレクトにつながっていると信じることもできる。「何のために働くか」という疑問は、圧倒的な経済成長の前には問われる必要がなかった。
「何のために働くか」「何のために生きているか」「自分がこの仕事をする意味はあるか」という質問は、常に上手くいっていないときにのみ発せられる。少なくとも、自分が上手くいっていないと感じるときにのみ発せられる。
1998年以降は、GDPが前年比マイナスになることも増えた。前述の紳士の職が上手く行かなくなり、廃した時期は、2001年から2003年までの3年連続マイナス成長と重なる。データはマクロであり、個人はミクロである。ただ、個人の気持ちの持ちようは、社会全体の趨勢から完全に自由になることは難しい。紳士は当時、「何のために働くか」「何のために生きているか」「自分がこの仕事をする意味はあるか」について悩み続けていた。
・出現しだした「やる気」と「モチベーション」
日本経済がバブル崩壊後に、経済復活ができず呻吟していたころと軌を一にして、「やる気」と「モチベーション」が創造されるにいたった。
国会図書館の雑誌目録を調べてみた。「雑誌記事索引検索」を利用し、「モチベーション」を論題名とするものを検索してみた。すると、1969年までは、それを題材にしたものは、たったの34件にすぎない。同じく「やる気」で検索してみても、1969年までは12件で、バブル崩壊を境に、突然、増加してくる。
1969年まで、そして2005年以降を数えているため、年数の尺が合致していないところがある。ただ、この数を見るだけで、「モチベーション」と「やる気」の恐るべき雑誌記事成長率がわかる。この伸びは、皮肉ながら、かつての日本経済の成長率を見るようだ。
モチベーションは、もともとから問題だったのではない。あるとき、上手くいかないのはモチベーションのせいだと創造されたのだ。このことは仕事人たちにとって大きな変化だった、と私は思う。やる気も同じだ。
・「やる気」と「モチベーション」の思想的勝利
いま、私たちは、仕事にやる気やモチベーションは必要不可欠なものだと思っている。いや、やる気やモチベーションのない仕事の成功など、想像もつかないほどだ。これは、やる気やモチベーションの思想的な勝利である。しかも、その考えは、徹底的なほどに人びとの行動や思考を左右している。
思想の勝利とは、人びとが、その思想を抜きには思考すらできない状態のことだ。余談だが、私はこのような勝利の例として、「愛」や「道徳」があげられると思う。私たちは、もう「愛」や「道徳」を否定すること自体、想像すらできない。
思想が勝利を求めて闘ったことさえわからない。闘った痕跡すらない。これこそ完璧な勝利だ。いま人びとは、やる気やモチベーションによって仕事をなすべきだと信じている。なぜ、人びとはやる気とモチベーションを勝利させたのか。おそらく、それはそれ以外に選択肢がなかったからだ。経済環境が落ち込み、企業成績も落ち込み、かといって会社内部でのノルマが軽減されるわけではない。そうしたときに、人びとが騅逝かぬ現状を合理的に説明するために、理由を自分内部のやる気やモチベーションに求め始めた。そこに理由を求める以外にすがるものがなかったのだ。
私は、この合理化に必ずしも反対ではない。たとえどんな「でっちあげた」理由であっても、人生の局面において、それを信じて生きるしかないときはたしかにある。仕事がうまくいかない、仕事の成果があがらない。そのようなときに、モチベーションをあげればいいはずだ、と信じることしか残されていないときもあるだろう。
ただ、ここで問題なのは、自分の焦点が仕事の改善そのものではなく、心の持ちようにあてられることだ。世の中の「成功法則」や「モチベーションアップ策」や「ポジティブシンキング」のほとんどが、心の持ちようを強調し、具体的な仕事の改善策をあげず「目標さえ持てば、おのずと仕事の改善策を見つけることができる」と逃げている。やるべきことは目の前の具体的な仕事を少しでも進めることではなく、心と気持ちを変えることだとする教義は、人びとにある種の安堵を与える。なぜなら自己啓発や自己変革こそが必要であれば、変えるべきものは自分の心だけだからだ。
そして、やる気やモチベーションは持つべきものであり、持たないことは忌避されてきた。ほんとうは誰だってやる気やモチベーションを常に持ち続けているわけでもないのに、それを持ち続けているように強制され、あからさまにそれらを持たない人は「かわいそうな人」に転化していった。自己愛の裏返しとしての、他者へやる気やモチベーションを持つことの強制。自己愛の本質は、他者への軽蔑だ、と私は思う。
ただ、「モチベーションを持っていない自分」を肯定するほどには強くなれないのだろうか。モチベーションを持たない前提で、「とはいえ仕事はせねばならない」と開き直る程度の強さは持てないのだろうか。
・希求物としての「やる気」と「モチベーション」
ここで考えておかねばならないのは、人びとが「モチベーション」「やりがい」「夢」を強制されただけではなく、自ら求めた側面もあることだ。
さきほど、企業が労働者に「やりがい」や「夢」を求め始める構造について書いた。そして、やる気やモチベーションが創造された仕組みについても述べた。これは企業を一方的に悪く書いたのではない。むしろ、消費者にも、「やりがい」や「夢」を求めてきたように私には感じられる。
私は「日本経済が停滞し、消費者がモノを買わなくなり、商品が売れなくなった」結果として「消費そのものが労働になった」と述べた。
商品一つひとつの差異が少なく、汎用品は価格だけが購買基準になってしまった現在、消費者は売り手に、せめてもの差異として「やりがい」「夢」「やる気」「感情」を求めだした。同じものを買うのであれば、元気の良い、感じのよい、そしてやりがいや夢をもった店員を選択することは理解できる。
ただ昨今では、むしろその点だけを極度に重視しはじめた。本来であれば、お金を払う対象はモノでありサービスであったはずなのに、売り手そのものが購買対象となった。
この傾向は、かつてから指摘されてきた。たとえば、現在では古典的な名作ともいえる『管理される心』(A.R.ホックシールド著・世界思想社)で、その傾向が取り上げられている。著者は、当時のデルタ航空での社員教育の例を紹介し、こう書く。
<教官で、陽気に訓練をする曹長のようなスタイルを好んでとる人物がいたが、彼女が声を張り上げてこう言った。「私たちがいつもやっていることは?」。ある生徒が「デルタを売っています」と答えたとき、彼女はこう切り返した。「ちがうわ! あなたたちはあなたたち自身を売っているのよ。あなたも自分自身を売っているんじゃないの? あなたたちは自分自身に関わる仕事をしているの。私たちは自分自身を売ることを仕事にしているのよ、そうでしょう? それがすべてじゃない?」(126ページ)>
そして著者は、同社にかぎらないこの感情販売の様子をこうまとめる。
<資本主義が、感情を商品に変え、私たちの感情を管理する能力を道具に変えるのではない。そうではなく、資本主義は感情管理の利用価値を見出し、そしてそれを有効に組織化し、それをさらに先へと推し進めたのである。そしておそらく、感情労働と競争とをつなぐために、そしてさらに、実際に「心からの」笑顔を宣伝し、そのような笑顔を作り出すために職員たちを訓練し、彼らが笑顔を作り出すところを監督し、そしてこの活動と企業の利益との結合を作り出すために、ある種の資本主義的誘因システムが用いられるのである。(213ページ)>
かなりややこしい日本語だけれど、「いまの社会では、感情が売り物になることが発見されたんで、社員に笑顔を作らせ、管理している」ということだ。この『管理される心』が1983年に指摘しているとおり、この感情販売は昨今の特有の事象ではない。
ただ、この流れが加速している。いまでは、「やりがい」や「夢」、そして「やる気」や「モチベーション」の大切さを社員に伝えない企業のほうが、むしろ少数だろう。そして、「仕事で自己実現を!」「あなたは仕事で自分自身を売っているんです!」という教育はいたるところで見られる。そして、現代に働く私たちはみな、「やる気」や「モチベーション」に罹患していった。
・時代に影響される「個性的」な私たち
しかし、それにしても、なぜ私たちは時代の影響をこれほど受けるのだろうか。自らが自発的に持ったはずの感情についても、しょせん時代の創作物にすぎないのだろうか。
人はみな、個性的であることを願う。ただ、その個性が時代の影響を受けていることに気づく人は少ない。また人の悩みも、時代を反映したものが多い。いまではモチベーションがない、という悩みを持つ人が多い。それは平凡な悩みである。ほんとうに個性的であるとするならば、表面的な服装や性格ではなく、「モチベーションがないので仕事が進む」くらいのことはいってほしい。「やる気がないので、仕事で成功しました。やはり仕事は技術ですね」とでもいえば、一つの個性だろう。
また時代が右肩下がりのときなら、周囲を呆然とさせるくらいの楽観論を述べてほしい。みなの意見が統一されている現状は、一種のファシズムさえ感じる。いや、時代の状況や空気に流されるのではなく、その一つひとつを疑い抗うことこそ自由の本質ではないかと思うほどだ。
私は以前、書籍のインタビューで「私は仕事が嫌いなので、上手くいきました」と語ったことがある(柴田英寿さん著『サラリーマンのための「会社の外」で稼ぐ術』・朝日新聞出版)。「嫌いなのに人並みにできているということは、やり方と技術さえ考えれば上手くいくと考え実践してきました」といった。これは当時の本音だった。私はその当時の仕事が好きになれなかった。しかし、粛々とやっていれば、普通程度の成果は出た。好きではなく、やる気がないのに、「たんたんと仕事をする」事実だけで普通の成績、人並みになったのだ。ということは、仕事を少しでも工夫すれば、すぐに他を抜きん出ることができるだろう。仕事が好きであれば、その仕事に没頭すること自体に熱中する。ただ、嫌いであれば、対象を客観的にとらえ、上手くこなせるようになるだろう。むしろ、仕事はもともと好きではないほうが上手くいくのではないか。
そう率直に語ったつもりなのに、収録された分は、まっとうな内容になっている。編集者も、混乱したのか、私の発言が謙遜ゆえと考えたせいなのかはわからない。「あなたの意見は面白すぎて使えない」といわれた。私は、インタビューを受けることも好きではない。だから、そこから相手が記事にしやすい内容は何かと考え、記事にしやすい内容をたんたんと答えたことを覚えている。やる気がないがゆえに、早く終わらせたくて「ここで得たいコメントは何ですか?」「どういうコメントだと次につながりますか?」と訊いて、自分の意見と矛盾しない程度に紡いでいった。
このように書くと、「そんなにやる気のない人のインタビューを読みたくない」と思う人もいるだろうが、このインタビューが好評だったようで、その編集者とはその後に本を作った(『レシートを捨てるバカ、ポイントを貯めるアホ(朝日新聞出版)』)。これもやる気がなかったゆえの成果だろう。
かつてKY(空気が読めない)が流行したこともあったものの、空気を読み過ぎると自分の仕事や生き方にも悪影響を及ぼすことがある。それに、読むべき空気などほとんど存在しない。
時代に流されず、黙々とたんたんとやるだけだ。
成功者の本を読んだり、尋ねたりすれば、必ず「自己実現したい像や、なしとげたい夢を抱け」と語っている。しかし、私が接する限り、その多くの肝要は、成功したのちに「あ、オレってこれがやりたかったんだ」と勘違いするプロセスにある。現時点で成功している事業を特別にやりたかったわけではないのに、成功して振り返ってみれば、「これこそが成し遂げたかった夢だったんだ」と思い込むのである。もっといえば、誤解である。
ただ、これはまったく悪いことではない。すべての成功譚にはこの誤解が紛れこんでいる。成功者の話を聞いても、その成功には偶然や運や、細かな条件が絡み合っている。だから、成功法則の一般論は役に立たない。そして、さきほど説明したとおり、心の持ちようは、なおさら役に立たない。これが世の中の成功本を読みあさり、多くの事業家と接した私の結論である。
また、現時点で描いた自己実現像や夢も、スピード社会に生きる私たちにとっては、すぐに古新聞になってしまうことも多い。だから、自己実現や夢に拘泥することなく、そして、その失敗にめげる必要はない。
私が勧めたいのは、逆の「自分なくし」である。自分を規定したって意味がない。時代の行く末を考え予想は立てる必要があるが、日々の生活では、たんたんと仕事をこなすだけだ。夢とのギャップに悩むのではなく、ちょっとしたプライドが傷ついたくらいで落ち込むではなく、ある種の楽観を抱き、「今」に集中すること。自分の可能性を、夢などという現時点の自分が考えた程度の堅苦しい型にはめるのではなく、より柔軟に持つこと。
「今さえよければいい」とは、刹那主義的な考えではないと私は思う。むしろ、「長期的に考えるほど、今に集中したほうが、長期的に良い結果が出る」ということではないか。成功者たちも、その多くは、「今」に集中し、力を発揮してきた。
時代全体の雰囲気に影響されず、よどんだ空気に汚染されることなく、目の前の仕事を見続ける。少なくとも私は会社から「やりがい」や「夢」を強要されたくない。
私は、「やりがい」や「夢」はあとからぼんやりとわかるものだと思っていた。やる気やモチベーションは、あるとき、勝手に出るときもあれば、出ないときもあるものだと思っていた。
しかし、私は大きな誤解をしていたようだ。
いまでは自分で「やりがい」や「夢」を創り上げるのではない。他者から作られたそれらが、私たちの心に入り込むのである。
しかも、気づかないうちに、そして巧妙に。
さらにそれが絶対的なもののように私たちを縛ろうとするのである。
<おわり>