調達、あるいは刹那という名の衝動
「何もないのかよ!!」
上司はあきれて声をあげた。
調達部内での会議でのことだ。
その声を上げたのは調達課長。就任したばかりの人だった。
新任してからというもの、課員の話を聞けば不平不満ばかり。「他部門から無理な納期を押し付けられる」「無謀なコスト目標がふってくる」。
この世の罵詈雑言を捨象したような鬱憤に嫌気がさしたその上司は、それならばと「俺が他部門に申し入れる」と宣言した。
不平不満があるのであれば、それをいかに改善すればよいか。どのような業務の取り組みをなせばよいか。新たな仕事のやり方はいかなるものか。
そのような提案を部員から募った。
しかし、その返信はゼロ。
もちろん、全く返信がなかったわけではない。ただし、返信のあった内容も結局は他部門への愚痴ばかり。
グチばかりではなく、どのような方法を創出したら、より良い将来像を描けるのか、という具体論はなかった。
だから、新任課長は怒るしかなかったのだ。
「何もないのかよ!!」と。
ただ、それを聞いていたバイヤーは「そりゃ当然だ」と思った。
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そのバイヤーは私だった。
調達・購買部門が恵まれているな、と思う点がある。
それは、自ら現状を変える必然性がなく、仕事の受注も不要な点である。
朝出社すれば、「買わなければいけないリスト」がある。
加えて、「納期をフォローしなければいけないリスト」もある。
自ら動かずとも、仕事がどんどん届く。
その仕事すらも、サプライヤーか後輩に投げれば一件落着。
そういう構造だから大量の阿呆が生まれていく。
いや、その構造こそが悪い、という指摘はもっともだ。創造的な仕事を求められず、評価基準とすらされていない状況で、どうやって仕事を創り出すモチベーションが出てくるだろうか。
ただし、そのような組織や評価軸の変革を短期間で成し遂げられることは期待できない。
結局は個人の自覚に頼るしかない。批判だけではなく、新たな仕事の形を想像する姿勢が求められているのだ。
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私が本を出版した際に、様々なメールをいただいた。
賛同してくれる人もいるが、批判してくる人がほとんどだ。
ただし、その場合も、「ではどうすれば良いか」までを提示してくれる人はほとんどいない。たいていの場合は、私の内容を指して「こうじゃないよね、こうだよね」というだけ。
そこには、単純な間違い探し根性以上のものはない。
一番重要なのは、「何を」創るか、「何を」書くかであって、出来上がったものに対して意見を持つことではない。
ほとんどの人は、机に座ったままでサプライヤーから届く見積りに赤ペンで間違い箇所を指摘するだけ。だから、そんなメンタリティでは 「自分なら、このような文章アプローチで、読者により分かりやすく伝えられる」と提案を考えることもない。
単純な話だが、私のアプローチを批判するならば、ご自分で書いてみればよい。
それだけの話なのに、なぜ私に言ってくるのだろう。そういうメールには私は返信はしないし。おそらく寂しい大人なのだろう。
実は、もう既にあと何冊かの執筆の依頼もきている。間違い探しや質問は得意だが、創造は全くできない、という人たちがほとんどだから、この領域で書ける人は私しかいないのだろう。
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調達とは何か。
調達とは、英語で言えば、ソーシングである。
調達を実施するということは、そのバイヤーしか成し得ないような個性を入れる必要がある。
個性とは、これまでのやり方ではない何かを創新することである。
その意味では、ソーシングとは創新のことなのである。
バイヤーが単なる愚痴や批判を忘れ、悪習を変えるべく創造を開始するとき。
そのときこそ、まさに新たなバイヤー像が生まれる。
批判するよりも、まず突拍子もない試みを始めてみないか。
「バイヤーは、創新プロフェッショナルになれ!」