バイヤーとは職業じゃない、生き様だ
「できましたよ!!」
そのバイヤーは電話を待っていた。
サプライヤーの営業マンからの電話を、独りで待っていた。
電話が鳴る。受話器を取ると、「すみません、あと30分待ってください」と。
再び電話が鳴る。またしても、「あと15分だけ」と。
それは、土曜日のこと。
土曜日の職場は、そのバイヤーにとって遊び場だった。独りだけで、書類を他人の机にまで広げ、仕事に飽きたら大きくストレッチをし、日ごろ考えないことを考える。これが、最高の遊び場ではなくてなんだろうか。
そのバイヤーが待っていたのは、見積り書。
カスタム品だから、サプライヤーも見積もり作成に時間がかかる。
しかし、打ち合わせや価格交渉の時間は限られている。だから、止む無く、土曜日出勤をしていた。
そうしているうちに、電話が再び鳴る。
「できましたよ!!見積り書!いまメールで送りますから!」という営業マンの声。
すると、バイヤーはすぐさま答える。
「分かりました。じゃあ、土曜日なのでこちらには入れないでしょうから、駅の近くの喫茶店で」
バイヤーは夕方の街に消えていく。
・・・・
そのバイヤーは私だった。
昔の話だ。
調達・購買というものの可能性を信じて、休日にも働いていたことがある。
目標としているコストにおさまっているか不安で、休日に営業マンと交渉を繰り返した日々。
付き合ってくれた営業マンには、お礼の言葉も思い浮かばないが、それだけ自分の仕事の価値を信じたくて日々悪戦苦闘していた。
見るもの全てが新鮮で、学ぶべき対象にあふれ、何もかもにぶつかっていた。
資本主義とは、価格の格差を追い求めるゲームだ。
1円でも安いサプライヤーから購入し、他社に少しでも差をつけて、市場で勝つ。とするならば、調達品に関しては原理原則通り、競合で最安値のサプライヤーから購入すればよい。
しかし、そう上手くはいかない現実。
そこには、しがらみがあり、「設計者の好みのサプライヤー」なる言語化不可能の実情があり、矛盾があった。
それでも、選択せざるを得ないサプライヤーを1円でも安くしようと、交渉を繰り返す。
そこにどれだけの意味があるだろう、ということを自問しながら。
・・・・
私がそのあとに分かったのは、「どれだけ問題が発生する前に、頑張ってつぶし込んだとしても、バイヤーとして評価されるのは、問題を起こしてそれを解決したかのように見せかけることのできる人間だ」という矛盾した事実だった。
本来は、「問題を発生させない」方が偉いはずなのに、「問題を起こして解決した」方が努力しているように見えるのであった。
こういう矛盾を一つ一つ声に出して問題提起しなければ、会社からの評価はもっと高かったのだろうな、と思う。
初回の見積りをサプライヤーにワザと高く出させる。そのあとに、さも努力したかのようなフリをして見積りを「安く」するバイヤーが評価されるさまを、私は見ていた。
こういう素晴らしい技術を習得していたのなら、私も評価されていたのだろうな、と思う。
そして、バイヤーとして、通常の組織から高評価を受けたいのであれば、必修すべきスキルだと思う。
ごめん。皮肉が過ぎた。
でも、そういうバイヤーは死ねばいいと私は思っている。
ごめん。これも言い過ぎた。
・・・・
でも、おそらく--、と言ってみる。
資本主義社会は、そんなバイヤーの「裏技」を見逃さないほど、すでに成熟しているのではないか。
つまり、見せかけだけのバイヤーはいつか市場から消えていく。
地道で、目立たない、それでいて確実な仕事をこなすバイヤーが市場では受け入れられていく。
軽い恋愛が流行する時代に、純愛が再評価されるように。派手な手法と、奇をてらった言葉で「何十億円のコストダウン達成!」と大声で叫んでいる奴らの傍らで、粛々と黙々と、それでいて強い意志をもち自らの道を進むバイヤーの時代がやってくる。
私が、これまでの過激なタイトルとは似つかわしくないほど地味なタイトルを出版処女作に名づけたのは、そういう秘めた想いがある。
「『バイヤーとは、生き様です』と言え!!」