私を嫌いにならないでください(坂口孝則)
かつて、じゃんけんの統計論文を確認してみました。何を出したら勝てるかを分析したものです。何を出したって三分の一と思いますよね。でも、日本には「最初はグー」文化があり、グー、チョキ、パーそれぞれ筋肉運動量が異なるため、微妙に異なるのです。
もしご興味がある方は、論文検索をしていただければ、さまざまな研究者が真面目にじゃんけんを分析しています。おおむね、最初にパーを出し、あいこだったら次にはグーを出せば確率がもっとも高いようです。
しかし、劇的に確率が変わるわけではありません。最初はパーがよいといっても、たったの数パーセントの違いです。しかも、観測数からいって、標準偏差(ズレ)のていどにすぎません。だから、結局はランダムに出しても、さほど結果は違わないでしょう。
ところで、私は、論理的とか理論的な根拠がないものは、ほとんど信じません。まわりからは、あまりに堅苦しいと思われているほどです。あくまでデータと再現可能性があるものしか信じたくないのです。
ただ、矛盾したことを書きます。
私の尊敬する小山昇さんは、ご著作でこう書いています。<「1ヶ月で50回」じゃんけんをしました。さて、私は何回負けたと思いますか……? 答えは、「1回」。私はたった1回しか負けなかった。(中略)人間には「クセ」があり、パターンがあります。そのパターンを見つけ出せば負けにくくなります。「彼はいつも、ハンバーグから食べはじめる。そしてハンバーグから食べ始めたときは、どうやらチョキを出す。にんじんから食べはじめたときは、いつもとはパターンが違うので、グーかパーを出す」と仮説を立てます。にんじんを食べた彼が「グーかパー」が出すことがわかれば、私は「パー」を出せばいい>
小山さんは、エレベーターが3基あると、どれが先に到着するのか、つねに当てるそうです。
この話を信じますか。実は私は信じています。それは私の師もおなじことをいっていたからです。師は<「運が悪い」といっている奴は、「運が悪い」と自分で決めている>といっていました。<真剣じゃないから運に負けるのだ>と。ものすごく定性的な、精神的な話です。
もう一つ、精神的な話をします。私はそれなりに特別な業績をあげたひとと飲みに行く機会があるのですが、そういうときによく「絶体絶命だったんだけれど、偶然にも解決しちゃってね」という話がよく出ます。それと、「たまたま、解決できるひとと出会ってね」とも。私はそれを、「まさかあ謙遜でしょう」と感じていました。しかし、そうではありません。
諦めるひとは、諦めます。諦めないひとは、運を天に任せず、抗おうとします。そして無意識に解決できることを信じています。信じ切っているのです。
調達・購買関連のコンサルティングをやっていると、いつも無理難題が振ってきます。単純なコスト削減の依頼を私にするひとはほとんどいません。これまで、事前に答えが存在するものはほとんどありません。そのようなとき、私はひたすら解決策を考え抜き、ギリギリまでやったら、お客さんと飲みに行ってしまいます。答えが出ていないのに、です。
放棄しているので、これをお読みの方は、私を嫌いになるかもしれません。しかし、解決策がこうすると、そのうち降ってくるのです。
方針を記します。
・難題にぶつかっても、とりあえず考え続ける
・なぜか考え続ける行為「そのもの」がなぜか解決策をくれると信じる
・ギリギリになったら解決策が降ってくるのを心から信じて酒を飲む
祈る、という行為を一度でもしたことがあるひとは、もしかすると「宗教を信じるひと」と同義かもしれません。