日本テレビ「スッキリ」でご一緒した下川美奈さんについて
・報道と泣くということ
日本テレビ「スッキリ」で木曜日に下川美奈さんとご一緒している。4月からは違う曜日になるため、ちょっとした思い出を書いておきたい。
まず下川さんは「乱れる女性」である。
女子学院高校、早稲田大学政治経済学部、日本テレビ報道局という必殺仕事人的なキャリアであるため、お会いする前、正直にいえば、私のなかでは冷静さや平静なイメージが支配していた。しかし、お会いすると、私の先入観は完全に覆ることになる。
哀しい出来事には落涙し、明るい出来事には愉悦を隠そうともしない。「乱れる女性」という表現は、もちろんあえて採用したもので、チャーミング、多感と言い換えてもいい。
報道において何かを伝える主体になるということは、主体が何を感じているかを表現せずに、事実を扱おうとする。自身の心とは関係なく、むしろ心を気づかれないように情報を紡いでいく。しかし当然ではあるものの、伝える主体も心が揺さぶられ、ときに視聴者は報じる側の心の揺れを知りたいと希求する。おそらく、これがストレートニュースだけではなく、情報番組が需要されてきた理由ではないだろうか。
私は馬鹿者だから、子供を見ては「かわいい」とつぶやき、惨事には涙を止めようともしない下川さんの姿を見て、私はやっとそんな当たり前のことを知るにいたった。
・速さを求められる報道のなかで
下川さんは無自覚だっただろうが、これまで朝の打ち合わせを「今日は富士山が見えますね」「今日は富士山が見えませんね」ということからはじめられた。そのうち、私も自然と、富士山の様子を眺めるようになった。私はそれまでデータと事実を詰め込もうとした。男は哀しい性にほかならないかもしれない。これがセンチメンタルならその通りかもしれないが、身近な景色にその日の変化を感じるようになった。
感情の豊かさと広げようとする努力なしに、社会を清明に分析することはできない。
人は、自宅と公共機関と会社の、点と点を結んで生きている。しかし、完全に同じ日常が続くわけはなく、そこではちょっとした綻びから事件が生まれ、ときに社会を揺さぶることになる。その事件を報じる立場にいるのがメディアだが、その報じ方によっては人々は不安になる。近代社会においては感情をさらけ出すのを抑制させられ、ニュースは速度を求められる。
感情抑止の社会、そして報道が求められているもの。それらと私の見た下川さんの様子が、あざやかに対照していたのは印象的だった。
・川の流れは絶えず、元の川にあらずではあるものの
ところで、これは詳しく書けないものの、下川さんのコメントは、聞いてみるとご自身の経験の思惟を重ねた結果であることが多い。「以前、こういうことがあって」と。
大げさにいえば、人間がなんらかの画像を見ながら泣くときに、実は自分でも気づいていない、これまでの人生の悲しみが溢れ出しているのかもしれない。春は一般的には始まりの季節だが、人は同時に不安も懸念も悲しみも有している。春の空はあんなに綺麗だが、それは人びとの感情をせいいっぱいに吸い込んでいるからかもしれない。
春は別れの季節でもある。
現代の社会の貧しさは、別れを前にしても、忙しくすることで別れ自体を忘却しようとする点にあると私は思う。立ち止まることを忘れ、その意味を考えてみようともしない。
若ければそれでもいいかもしれない。しかし、あえて別れを惜しむことによって、別れを熟していきたいと思う。新たな何かを求める歓喜だけではなく、それは静かな喜びかもしれない。
私は下川さんの感情をふたたび見たいと思う。
ありがとうございました。