書評「人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした」(大木亜希子さん著)
私小説の形をとったドキュメンタリーだ。著者は30歳手前の元アイドル。そして、鬱状態を経験したのちに、金銭的な問題もあって、50代の戸建て持ち独身男性(離婚経験者)との肉体関係のない同居をはじめる。
アイドルは脚光を浴びる、そのものが仕事だ。だから、人目にさらされながら活躍する。この私小説は、その華やかなステージを脱したあとに会社員としてフリーランスとして生きていく女性の一人称が書かれていく。
一度、華やかな光を浴びたとしても、人生はたやすくない。この私小説では、バイトの経験や、あるいは預貯金のなさに呻吟する様子が書かれたり、そして、ハイスペック男性との合コンの日々で心が傷ついたりする様子が赤裸々に語られる。
私は、この小説の魅力は、主人公が傷つくだけではなく、”50代の戸建て持ち独身男性”が優しくアドバイスをしてくれるところにあると思う。それにしても、その魅力的かつ、残虐さは、そのアドバイスが有効なのは、その男性が主人公の人生に関わっていないゆえにある。これは逆説的ではない。順接的だ。
誰かに有効なアドバイスを提示できるのは、その誰かの人生に距離を有している人しかいないのだ。
この私小説では、元アイドルであるにもかかわらず、イタいほど主人公が次の彼氏を探して奮闘する様子が描かれる。男性の体をベタベタ触ったり、あるいは繰り返し連絡をしたりと、その過剰が描かれる。
これ以上はネタバレになるから、本書を読んでいただくしかない。主人公は、ある男性に好意を持ち、そして途絶える。それもまた、偶然に左右された自分の人生を彩るかのようなエピソードとして。
この小説には、著者本人すらも気づいていないような固有名詞が存在する。そのなかの一つが、ショパンだと私は思う。たとえば、”50代の戸建て持ち独身男性”は、ショパンの曲をピアノで弾く。それは、クラシック音楽のなかで、それ以前のクラシックに抗おうとしたショパンのイメージに重ねられるのは必然である。
さらに、最終章で、ショパンの「雨だれ」が流れる記述がある。これは主人公がさまざまなトラブルのあとで、それでもなお、人生の希望を見出すシーンで象徴的に使われている。
ショパンの「雨だれ」は音楽史に詳しい人であれば有名であるように、ショパンが大病を患った際に作った曲だ。さらに、人生の絶望を感じ、しかしながら同時にバッハといった巨匠に負けぬように、生きることそのものの希望を叩きつけるように作った曲だ。同時に付け加えれば、ショパンは大恋愛の末に、この「雨だれ」を作曲したとされる。
そこまでの深読みをお許しいただいたうえで、この私小説に戻るのであれば、まさにショパンの「雨だれ」が使われた必然性があるように感じられる。これは著者が意図していなければ、なおさらのこと、無意識の内包が感じられる。
ところで、私は2020年7月18日に著者と対談する機会に恵まれた。その明るさに私は、ふいに胸を衝かれた。もしかすると、著者が伝えたかったことは、単純なことだったのではないか。人生にはさまざまな桎梏がある。それでもなお、人生を楽しむことができるのだ、と。