書評「セルロイドの海」(平野悠さん著)
・「セルロイドの海」
哀しい恋愛小説を読んだ。哀しみは、主人公の孤独から投影される。しかし、不思議なことに、悲哀だけではなく、同時に主人公の強さをも感じる、奇妙な読後感だった。
著者は、ロフトグループ創始者の平野悠さんだ。ピースボートに乗り、世界各地を巡った経験を元に書かれた自伝的小説だ。個人的な話だが、私はライブハウスに入り浸っていて、そのなかにはもちろんロフトやシェルターも含まれていた。ハードコア、メタル、ノイズ……。喧騒や酒、タバコの匂い、衝動。そこには人生のすべてがあり、私の起点となった。
ロフトグループ会長となった平野悠さんについて、雑誌のインタビューで読む機会があり、ロフトプラスワンでもお見かけした。平野さんは、かつてから世界中を周っていたが、今回は70歳での世界旅行だという。自伝的小説形をとった、ほぼドキュメンタリーに近い「私」小説。
主人公は、船の上で、さまざまな魅力的な女性たちと出会う。未婚のまま60歳をこえてしまったひと。夫の浮気に耐えかねて逃げ出すように乗船したひと。レストランで、バーで、カフェで。それぞれの登場人物たちは、ある種、人生での欠落を抱えており、そのパズルを埋めるかのようにお互いに惹かれ合う。
主人公はある女性に恋をする。
<私の頭の中は、久しぶりに「恋との遭遇」が最大のテーマになっていた。床に横たわる紙コップを見つめながら私は自分に呆れていた。
恋するってどういうことなのか分からないままに、まるで思春期の青年のように頭の中がだんだん彼女のことでいっぱいになってゆくのを止めようもなく、うろたえる自分がいた。(P49)>
70歳の恋がどのように流れ、たたずみ、そして元の海に流れ着いていくか。それは本書を読んでいただくほかない。ただ、読前に感じていた70歳の恋物語への違和感は、ページをめくるたびに消え去り、またたくまに世界に没入していた。航路が、人生の比喩であるのは明らかだが、人生の始まりではなく人生の後半部分を演じる登場人物たちに感情移入したからなのは間違いがない。
・恋というレジスタンス
すぐれた小説は全身で予言的だが、私はコロナ禍のきっかけを作ったゴールデンプリンセス号とおなじく、客船が舞台になっていることに驚いた。ピースボートと豪華客船は違うとはいえ、だ。
今日の不幸は、慌ただしく流れを止めない社会において、誰もが他人を気にする余裕もなく、哀しみが滞留することにある。とにかく早い時代のなかで、立ち止まり、落ち着いて考えることも、慰めることもない。さらに、中高年は働き盛りで、まとまった時間は作りようもない。
客船によって、強制的に異空間に佇むことは、きっとこれまでの人生を総括するために必然なんだろう。だから、この小説には、登場人物たちから名言が出続ける。
世の中では、「人生は振り返って良かったですか」と脳天気な質問者たちが、人生の先輩たちに訊く。しかし、良いか悪いか、そんな単純なはずがない。自分の理不尽な体験にも、意味があったのだと解釈し直すことによって、人生は肯定される。ただ、人間はうつろいやすいもので、この小説に出てくる登場人物たちは、自分の人生を肯定するかのような、あるいは否定するかのような、曖昧な総括にあふれている。ただ、それがなぜだかリアルを感じさせる。
登場人物たちは、生命として熟した季節であるとともに、凋落の季節をも予想している。生と衰退のにがみをもただただ受け止めているようにすら思える。それは30代の生きる歓喜ではなく、熟していく哀しみゆえかもしれない。ただ、そこに、誰かを恋する感情を復活させることで、ささやかな反逆を試みているように思うのだ。
ここに、冒頭で書いた通り、哀しみだけではなく強さを感じる。
何かをあきらめて加齢を続けるのは、貧しい哀しみの紛らわせ方にすぎない。運命や宿命の残酷さを知りながら、「それでもなお」と恋に落ちる、それは力への意志を実践することでもある。
ところで、本書にいたく感動しながら読み進めていくうちに、ふと思ったことがある。もしかすると、中年になって以降、出会う人の大半は、すでに出会った人の再来かもしれない。以前に別れた人とおなじ何かを、出会いのなかに探してしまう。そして自らの感情を極限まで膨らませる恋とは、人生の流れのなかに抗い、なんとか逆流のなか泳ぎ続ける試みではないだろうか。
男性は哀しい性にほかならない。
しかし、孤独に負けず、どこまでも誰かに恋を続けることはレジスタンスだ。
人生に対抗する武器ということなんだろう。
そして、これはメジャーな音楽シーンに反逆し続けてきた平野悠さんから書かれた。
まるでセルロイドみたいに、いつか土に帰る日が来ると知りながら。
それは、私が若いころ、ライブハウスで見た熱狂と似ている。
(坂口孝則)