書評「アイドル、やめました。」(大木亜希子さん著)
タイトルの通り、「アイドル、やめました。」はAKB48関連グループをやめた方々のその後をルポした秀作だ。
なにかの夢を追いかけるひと、そして、人生の岐路に立っているひと--、つまりほぼ全員かもしれないが、そういった状況の方々は読む価値がある。
しかし、それにしても、私が思うに書籍には、たんに印字されたものと、異常な情念で綴ったものがある。その意味では、あきらかに後者である。というのも、著者自身が、AKB48関連グループの出身であり、取材対象を自身に重ね合わせているのはあきらかだ。
紹介された元メンバーを見ると、さまざまな将来を選択した人たちがいる。かつてAKB48グループに在籍し、現在はアパレル販売員、保育士、広告代理店社員、声優、バーテンダー。そのすべてが、良い選択肢だったかはわからない。もちろん、個人の選択だから、私の立場でなにかいうべきでもない。
未来を前向きに生きるためには、これまでの過去に比べて現在が肯定されねばならない。過去よりも現在が意味あるものとされなければ、フィクショナルであっても、現在を生きる価値を感じられない。
この書籍に、現在の肯定感が充満するかというと、そう単純ではない。AKB48グループで活躍した過去にたいして、現在が100%充実しているかというと、簡単に肯定できるものでもない。もちろん、インタビューでは、AKB48グループにいた過去よりも、現在は充実していると語られる。私もそれらの発言を疑っているわけではない。
もちろん、彼女たちの現状認識では、現在は充実しているのだ。しかしそれでもなお、もし「アイドルとして頂点に立てるとしても、現在の職業を選択するか」と問われれば、彼女たちは逡巡するかもしれない。その微妙さが、本書を傑作たらしめている要因と私は思う。
AKB48グループに在籍した過去が、ほんとうに意味のない過去で、振り返る価値もないのだとしたら、そもそもこのようなインタビュー集が存在しないにちがいない。ここに、この本が示す、根源的な存在価値があるように思う。
なぜ、彼女たちは、「アイドル、やめました。」と明るく宣言しなければならなかったのか。これは説明するのも野暮だけれど、「アイドル」とは「近代的科学主義」を指している。つまり、この書籍は、「近代的科学主義をやめました」という女性たちの決別歌にほかならない。
近代的科学主義とは、よりよい自分の確立を目指すために、自分の感性と知性をもとに、世界を理解し成功を目指す「近代的な」人生観のありようだ。実際に、アイドル志願者たちは、自らの実力を信じ、そして、自らの信念において表舞台に立ち、そして、ふたたび去るにいたった。
その人生観のありようが、実はたまゆらなものだとわかり、結局は世間は、偶然のみが成功要因だと理解されるにいたった。「アイドル、やめました。」で出てくる彼女たちが、なぜ成功し続けなかったのか、という理由は誰もわからない。彼女たち以外のトップアイドルが成功しているのは、運、偶然、としかいえない。
その残酷さ、あるいは、大きな物語の終焉を描いたのが、この「アイドル、やめました。」と思うとわかりやすい。
近代的科学主義の終焉などといっても、わかってもらえないかもしれない。しかし、これまでよりよい世界をつくるために、個人の努力と理知的な活動が必要とされたが、それが終焉するので、これは大きな転換を意味する。
私たちは、理知的ではなく、動物的な世界を生きている。動物的な世界では、「よくわからない」「しかし、なぜかこちらが選ばれた」という状況を甘受するほかない。
私は著者の大木亜希子さんと何度かお会いしたことがある。ではなぜ、可憐な大木さんがアイドルではなくなる必然性があったのか。私は説明ができない。それは「運」としかいいようがない。
「アイドル、やめました。」は現在の状況と、その解決しようのない不条理を投げかけている。