連載「2019年から2038年まで何が起きるか」(坂口孝則)

*2019年から2038年まで日本で起きることを予想し、みなさまのビジネスに応用いただく連載です。

<2038年③>

*この連載も最後の2038年を迎えた

・教祖と仮想通貨

現代では、スマホを手放すことが出家で、電波を絶つことが修行と考えられている。しかし、実際には違うかもしれない。スマホで特定の個人をフォローし、その「つぶやき」たる教義を読み続けることが出家で、電波を絶ってリアルなイベントに参加することが、その世界観に近づくための修行なのかもしれない。

教祖は、教義だけではなく、新たな聖書としての通貨を発行しだすだろう。円は日本政府が信頼の根拠にある。何かを信じる、という特性上、通貨発行ほどふさわしいものはない。私が仮想通貨で違和感を抱くのは、仮想通貨は円換算でいくら、と表現していることだ。仮想通貨を信じているなら、別に円換算する必要はない。どんなに円換算で暴落したとしても、仮想通貨をもっていることに違いはない。あくまで円に換えようとするからソンだったりトクだったりが生じるのだ。しかし、持ちつづければいい、という説法こそ、もっとも宗教に近いのではないだろうか。

ICO、あるいは仮想通貨の発行により、さまざまな経済活動が可能となった。佐藤航陽さんは、『お金2.0』で、自分が好きな経済圏を選ぶようになる、と表現した。円ではなく、仮想通貨やトークンで給料をもらうケースも増えるだろう。いや、そもそも給料という考えが古く、フェイスブックの「いいね」のように電子上の投げ銭的な感謝の形、賽銭のような形が誕生するはずだ。

もちろん全員がそのカリスマになれるわけではない。ただ、「教徒」「信者」たちも、すべてを賭すわけではない。生活の利便性はあがっていく。3Dプリンターでカスタマイズ商品が生産でき、さらにVRで家自体を仮装空間化する。経済活動は有名人を中心としたコミュニティで発行されるトークンを中心とし、面倒なことはAIに任せる。そして、人間は、役に立たないことを中心に生きていく。その意味で、即物的にもっとも役に立たないアート、とくに現代芸術が注目されているのは必然というべきだろう。評論はおそらくAIができない文系分野だ。私は、「アート」「評論」というもっとも役に立たない、そして、これからも役に立つことのない分野にこそ可能性を感じる。カリスマは評論的な立場――世界を解説する立場のひと――に多いのは必然なのだろう。

あるいは、人間はもっとアバンギャルドを志向するだろうし、死語だがサイケデリックのような、無秩序で未完成なもの、荒々しさを求めるだろう。

・人生のDIY化

そして、これから生まれるのは、人生のDIY化、ライフオンデマンドとでもいうべき動きだ。ひとびとは、人生の指針を等身大のカリスマから得る。同時に、現実に実現できないリアルを、デジタル技術を使って自らにもたらす。

いま皮膚感覚を共有する動きがある。コネクテッドジャージは、スポーツ観戦で、試合中の選手と「つながる」ものだ。選手の心拍数や刺激などと同期し、おなじ昂奮を得る。しかし、このとき、観戦者の身体は、もはや誰のものだろうか。神経刺激技術ともいうべき、脳波に直接刺激をあたえるニューロプライミングも登場してきた。そして、たとえば、この技術が進化し、VRで触覚・嗅覚ともに想像上の物語を生きるとき、自分の人生はどこにいってしまったのだろうか。いや、そもそも、ほんとうの私など存在するのだろうか。

大容量のライフログが可能になれば、個人の視線で見た、感じたそのすべてを記録できる。手段は小型のスマートデバイスか、あるいは人体に内蔵されたハードウェアかもしれない。そして誰かの日常を、追体験できるようになる。繰り返すと、そのときにほんとうの自分の人生はどこへいってしまうのだろう。

良くも悪くも、自分の人生を、仮想であってとしてもDIYによって自在にデザインできるようになる。リアルなカリスマになるか、VRでの素晴らしき人生を生きるか。もしこれを批判するひとがいれば、それは、もはや批判者が可能な価値観の想像範囲を超えた、としかいいようがない。そして、仮想空間以外に、すでに信じられる価値をもっているからだ、としかいいようがない。

20年も先を予想する暴挙があってよいのだとすれば、教祖ビジネスと人生のDIY化を伝えるほどには、大胆でありたいと私は思う。いや、そのレベルでしか、私は未来予想を、もはや信じる気になれない。

<つづく>

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