坂口孝則の「超」調達日記(坂口孝則)
■10月X日(月)■
・この日からハワイへと飛ぶ。理由? 休暇ですよ。早期割引でビジネスクラスを使った。1年ぶりのビジネスクラス! やっぱり快適! 機中で「オタクの息子に悩んでます」「ビジネスパーソンが英語で語る マイストーリー100」「スティーブ・ジョブズに学ぶ英語プレゼン」「解錠師」「探偵伯爵と僕」を読む。「解錠師」は文句なく面白い。「オタクの息子に悩んでます」もなかなか!
・デルタ航空を使ったんだけれど、それにしても、外資系のフライトアテンダントて気さくな人多いよなあ……。男性が多いのも特徴。男性の意見を聞いてみたいが、ぼくがフライトアテンダントは男性のほうが良いと思う。なぜ世の中の男性は、スチュワーデスを求めるんだろう……。可憐なスチュワーデスを有するキャリアが倒産し、ホットパンツの男性のスチュワートを有するキャリアが生き残る。これも自由競争の社会ということか。
・機中はずっと眠れなかった。もう2012年は終わる(あと3ヶ月しかない!)。2013年はどうしようか……。新たなビジネスモデルはどうしようか……。など考え続ける。ぼくの好きな言葉に「何かを捨てると、新たなギフトをもらえる」という言葉がある。何かを得るために、いまの何を捨てるべきだろうか。
・ちなみに読者は5年前に想像したいたような「現在」になっているだろうか。答えは半々にわかれると思う。ちなみに、ぼくはまったく想像もしていなかったことをしている。おそらく5年後も、いま想像もしていないことをしているだろう。それは「運」といってもいいし、「偶然」といってもいい。ぼくはできるだけ、人生に変化を求めてきた。それは自ら変えるというよりも、目の前の仕事に熱中していたら、いつの間にか人生が変化していた、というほうが近い。目の前の仕事をやるときに、なんらかの「違い」をつけないと、前任者や先輩の繰り返しになってしまう。だから、仕事に変化をつけようとしてきた。それが、おそらく自分自身への変化にもつながったのだろう。抽象的ですまない。では変化とは? ぼくの心の師はこういっていた。「違うことをやれ、なんでもいいから」。これはずっとぼくを鼓舞し続けている。「違うことをやれ、なんでもいいから」。
■10月X日(火)■
・ハワイに到着。意外に寒いな。ショッピングセンターのバーで「Blue Moon」(アメリカのビール)を飲もうと思ったけれど販売なされていない。「Bud Light」を飲む。それにしても、アメリカ人ってのは陽気でいいなあ……。俺なんか、リゾート地でも仕事のことを考えているのに……。
・ぼくはリゾート地では何もしない。日本人のかたがたは観光に忙しいけれど、リゾート地に来てまで疲れるつもりか? ぼくはゆっくりと思考を巡らせるくらいだ。それと、何かの原稿のネタを探す。
・ハワイに永住したい日本人が増えているという。アメリカ国籍をとりたいひとも多いみたいだ。ただしアメリカは属人主義という税制をとっている。日本は365日のうち、半分以上を日本で過ごさなければ(正確には生活基盤がなければ)税金を免れる。よって、1年のあいだ世界各国を周り続ければ、間接税(消費税とか)以外の税金からは逃れられる。しかし、アメリカ国籍をもっていれば、どこの国に住もうが、税金を払わねばならない。アメリカ国籍を持つことも、さまざまな制約を覚悟してからだ。アメリカの金持ちは、皮肉ながらアメリカ国籍を捨てることが無税生活につながる。
・PT(永遠の旅行者)という生き方が注目されている。これは、世界各国を周ることで合法的に無税生活を送ろうとするものだ。橘玲さんの「永遠の旅行者」はこれを題材にしたもので、いまだに色褪せない傑作だ。PTとして一人だけで生活しようと思えば、年収500万円ていどあれば可能だという。
・ちなみに、たしか竹中平蔵さんは、1月1日に日本に居住していなければ住民税を免れること利用して、アメリカに居住を移し、住民税の支払いを免れた。これを報じた週刊誌と竹中平蔵さんのあいだで訴訟になっていたけれど、竹内さんが勝った(そりゃそうだ。ルール上は認められているからだ)。
・話を戻す。そうか、一人500万円ということは、夫婦ふたりで700万円くらい。子どもがいても1000万円くらい、毎年収入があればPT生活は難しくない。そのためには1000万円相当の「どこにいてもできる仕事」「継続的に売上高が確保できる仕事」を探せばいい。すぐにはできないかもしれないけれど、このような具体的な目標をもてば、海外移住がぐっと現実味を帯びてくる。
■10月X日(水)■
・朝のホテルでネットをチェックしていると、金子哲雄さんがお亡くなりになったニュースが飛び込んできた。これにはほんとうに驚いた。最後にお会いしたのは2011年の12月だった。そのときは、すごく元気だったのに、ニュースがほんとうだとすると、あのときから病魔に襲われていたことになる。
・すぐさまiPhoneを使ってブログを更新した。ほんとうに久々の更新だった。1000人くらい見に来てくれた。おそらく、金子さんが鬼籍に入ったことに、多くの人が信じられなかったからだろう。金子さんとは、「がっちりアカデミー」でご一緒したときからの縁だった。その数カ月前に、テレビ局のスタッフから、「坂口とは共演したくない」とおっしゃっている聞いた。「なぜですか?」と訊く私に、「専門領域がかぶっているからだそうですよ」と教えてくれた。もちろん、これは金子さん一流の謙遜にすぎなかった。金子さんは流通ジャーナリスト、流通評論家、といいながら、一人の芸人だった。流通ネタや商品ネタはあくまで、題材にすぎなかった。その題材をもとにいかにひとびとを笑わせるかに血まなこになっていた。
・客観的に見て、金子さんほど仕事に貪欲だったひとはいなかったと思う。つねに自分を売り込んでいた。年間100回ほどの講演をこなし、しかも「お金にならないんですけれどね。いつ仕事がなくなっちゃうかわからないから、いまのうちに稼がないと」。そういう意気込みが、もしかすると金子さんの寿命を縮めていなければいいけれど。
・金子さんは、「35歳まで無収入だった」とおっしゃっていた。しかし同時に奥様が献身的に支えてくれたことも感謝なさっていた。おそらく、金子さんが死期を目前に働いていたのは、残される奥様の経済的援助をしようとしたのではないだろうか。なんにせよ、41歳は早すぎるし、哀しい。
・金子さんとぼくは仲が良くて(すくなくともぼくはそう思っていて)、テレビ番組でご一緒したときは、いつも終わったあとに話していた。金子さんは、経済評論家のみなさんについて「頭がいいひとが正しいことを語っても、ぜんぜん面白くないよね」と繰り返していた。「頭がいいひとが間違ったり、殴られたりするのが面白いのに」と。金子さんの視線は常に視聴者と、多数の弱者に向けられていた。なによりすごかったのは、金子さんしかできない立ち位置があったことだ。真面目な話を、くだけて話す。これはぼくにはできない。
・2ヶ月ほど前、テレビの打ち合わせで金子さんとお会できる機会があった。ぼくは残念ながらそのとき某企業の研修でお休みした。それだけが悔やまれる。悔やむ、とは常に事後的なものだ。したがって、ぼくのこの後悔も、後付けでしかない。しかし、と思うのだ。金子さん、もう一度お会いしたかった、と。
■10月X日(木)■
・一日中ビーチであれこれ考える。金子さんのこと、執筆のこと、そして大学院のこと……。
・ほんとうに人間ってはかないなあ。がんばって地位を確立しても、死ぬときは一瞬。これからは「哲学と宗教の時代だ」と高城剛さんがいっていたけれど、心の支えがなければなあ……。
■10月X日(金)■
・帰国の日。バッグに荷物を詰める。ホテルの冷蔵庫に保管していたビールを飲む。ちびちび。空港から七時間の旅。
・帰国すると、テレビ局のスタッフから留守電が3つも残っていた。きっと「金子さんについてのコメントかな」と思った。しかし、電話してみると、「バターが値上がりしていますが、アメリカの干ばつとの関係を解説してください」だと。そうかあ、もう世界は普通に回っているのだな。哀しいけれど、それが現実だ。トウモロコシの値上がりとバターの値上がりを解説して、おしまい。妙に不思議な感覚が残った。もしかすると、テレビ局のスタッフは金子さんに電話していたかもしれないな、と。
・時差ボケのせいか、ずっと眠ることができなかった。
<つづく、かもしれない>