坂口孝則の「超」調達日記(坂口孝則)

■7月X日(月)■

いきなり週のはじめから怒りたくなる。原因は俺(これ以降、主語が「俺」「ぼく」「私」が混在する)に届いたメール。某有名コンサルティング会社出身のひとから、「今度、ウェブサイトを立ちあげるから、原稿を依頼したい」というもの。それはいいんだが、二つ問題点があった。

・一つ目、メールの本文中に、「つきましては、飯田様のご協力を仰ぎたい」と、俺の名前を間違っていること。これ、誰かに出したメールを完全にコピペしているだけじゃないのか。

・二つ目、執筆の依頼内容が、完全に俺の専門領域以外。「ITの導入事例についての原稿を依頼したい」だとよ。

・上記の二つの理由をもってして、事務能力に欠け、かつ他者への思いやりもない人間であると判断。メールの返信で、「嫌だ、断る」と書いた。

・ところで、「飯田様」というのは、俺と共著を出したこともある、飯田泰之先生じゃないのかな(笑)。今度、飯田先生に会ったら、訊いてみよう。

■7月X日(火)■

なんと、さぬきビールが送られてくる(笑)。このメールマガジンでぼくが紹介した。それを読んだ読者の方からのワイロ(笑)である。非常に嬉しいのだけれど、恐縮というか、なんというか……。いや、すみません。ありがとうございます。

・私は特定の企業から金銭をもらって商品をほめることはありません(笑)。ただ、今回は結果としてそうなった。

・これから俺が何かをほめるときは、そこにワイロの臭いを嗅ぎつけるひとが出てくるであろう。冗談である。

■7月X日(水)■

・朝からイヤな気分になる。ぼくの雑誌の原稿が、編集部によって勝手に修正されていた。誰かに原稿を依頼するとは、文章の細部を含めて信頼することだ。それによって、書き手と編集側の関係が成立する。しかし、今回は勝手にぼくの文章を変更していた。

・「連載を降ります」と連絡した。もちろん、理由は上記のとおりだ。編集部はたいそう驚いていた。それはそうだ、ひごろは従順な貧乏ライターとしかつきあっていない。何でもいうことを聞くひとたちばかりだ。「なぜ修正しただけで、そのようなことをおっしゃるのですか」だと。おそらく、編集者は著作権と、文責という言葉を理解していないに違いない。

・「みなさんの命令を素直にうなずくひとたちに連載を代わってもらいたいと思います。私は別にみなさんからの原稿料がなくても生きていけますから。ただし、このようなお粗末なご対応は、必ずどこかの媒体で顛末を固有名詞を含めて書きます」と返信。

・するといきなり、平謝りされた。馬鹿野郎。覚悟もなければ、勝手に修正すんな。しかもお詫びにやってくるという。

・これをバイヤーとサプライヤーの関係に昇華して話すのは強引かもしれない。ただ、相手が反論もせぬ「従順な犬」ばかりだと、バイヤー側は尊大な態度をとりがちだ。バイヤー側の人間としてよくわかる。ただし、取引はあくまで平等であるからして、ときに襟を正すべき機会がやってくる。

・俺は常に媚びない人生を歩もうと思う

■7月X日(木)■

・一日中、大阪で調達・購買の講義。終わって、ホテルに帰ってシャワー。そのあとに、TBSラジオに電話で出演。太陽光発電のコスト計算について話す。やはり、人の顔が見えない状態で話すのは難しいね。

・スタッフからは「面白かったです」といわれたものの、「どうせお世辞だろう」と思って落ち込んでしまうのが俺……。なぜ素直になれないのか。ただ、このように妙に自信がないところが、自分を改善しようとする気持ちにつながっているのだよなあ。

・つくづく人間は難しい……。え、そんな話じゃなかったか。

・なんだか眠れないので、高田直芳先生の「ほんとうにわかる財務諸表」を読み出す。うむー、これは傑作だ。ただし、通常のひとは手を出せまい。これは実務書ではない。企業会計の思想書である。ちなみに、ぼくは高田先生の著作をすべて読んでいるのだけれど、高田先生は日本初の管理会計計算式を確立した方ではないかと思っている。

・会計の専門知識にご興味があるかわからないが、高田先生の本のなかでもっとも面白い一般向けご著作は「会計は、コストをどこまで減らせるのか」であり、一読してソンはない

■7月X日(金)■

恋愛のはじまりは「あなたのことをもっと知りたい」。ただし、恋の終わりは「あなたがどんな人なのか分かったわ」となる。恋愛の矛盾はここにある(と俺は思うものの、なかなかわかってもらえない)。それを「恋」ではなく、「愛」と読み替えても、さほど変わらないだろう。あえて変わることがあるとしたら、恋が一方的なのにたいして、愛は相手を包み込もうとすることだ。

・しかし、愛は「あなたのことは私がわかっているのよ」という、ある種の優越性がなければ続かない。愛の本質は、相手よりも自分が上である、相手よりも自分の理解が上であるという、「軽蔑」なのだ。おそらくキリスト教の本質も軽蔑にある、と俺は思う。俺は必ずしも軽蔑は悪いと思わない。むしろ、人間的な感情ではないか。

・おそらくこの愛の限界と宗教の欺瞞(繰り返し、だからといって悪いわけではない)についてもっとも敏感だったのがニーチェだっただろう。しかし、最近のニーチェ解説本は、ニーチェの意地悪さについて言及していない。ニーチェは人生訓などに還元できる「単純さ」など持ち合わせていない。もっと危険で、もっとドキドキするような思想家だった。

・俺は最近のニーチェブームには違和感があるな。ちなみに、永井均先生のニーチェ解説だけは例外で、もっとも根源的なニーチェ解読になっていると思う。ちなみに、永井均先生の最高傑作は「マンガは哲学する」か「翔太と猫のインサイトの夏休み」だろう。とくに後者は、もしかすると、小学生が読んだら人生が変わるのではないか。少なくとも人生観は変わるだろう。

■7月X日(土)■

・朝から調子が悪いので、休むことにする。たまには休め、というサインかも。といいながら、原稿を書く。月刊誌と隔週で連載しているwebのぶん。

・ちょっと休んだら、いろいろな考え事が頭をめぐった。俺は何をしているんだろう。このままでいいのだろうか。将来は大丈夫だろうか。この手の答えのない疑問がもっともやっかいだ。

そこで思い出した。大学生のころだった。そのときは大阪に住んでいて、海に行くことになった。ちなみに、男だけで。そのとき、大阪大学の演劇部の友達が、海の家で働いているというので、冷やかしに行ったのだ(しつこいが、男だけで行った)。海の家で働けばナンパできるというのは、ある種の都市伝説のようなもので、大半の「イケてない男性」=「俺の友達」は、重いビールサーバーを運んだり、焼きそばを作り続けたり、とまあ、重労働だけで良いことはまったくなかったようだ。同じ海の家で働いていた大阪市立大学かどこかの優男はお客のギャル(死語!)をひっかけていたようだが、われわが仲間はそうではなかった。かっこいい男はいつでもモテるが、そうではない男は、環境が多少変化してもモテないのである。わはは。

・環境を変えても、結局は自分から逃れられないのだ。もちろん、環境を変えることで、多少の好転はあるだろう。しかし、それも長続きしない。モテたければ、陳腐な言い方だけれど、自分を磨くしかない。それ以外に根本的解決はないだろう。「こんなにたくさん女性がいるのに、モテねえのかよ、かわいそうだなあ」とぼくたちは笑ったけれど、その嘲笑は自分自身に向けられたものだったのだ。

・それから幾星霜。ぼくは環境を変えれば良いと思って、何度かの転職を経験し、そして何人かの女性がやって来ては去っていった。環境を変えても、結局は何も起きなかった。いや、もちろん、起きなかった、とは言いすぎだ。良かった側面もある。ただし、根源的な悩み--、というのかな、生きるうえでの問題は、どこまでいっても自分自身の内面でケリをつけるしかないのだった。ああ、ぼくはなんと遠回りをして気づいたのだろうか。多くのひとは、ある種の諦観をもって、環境を変えるのではなく目の前の仕事を粛々と続けているではないか。

・どこに行っても、問題は解決しない。やるべきことは、ただただ目の前の関係者を幸せにするよう努めることだろう。俺は何を考えているのだろう。体調が悪いせいかな。

<つづく、かもしれない>

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