『偽善と支援』(坂口孝則)
2011年7月上旬。仙台駅からレンタカーを借り、被災地である宮城県石巻市に行ってきた。
被災地に近づくにつれ私の前には、目を覆いたくなるような景色が広がっていた。泥だらけの海に食べられた住宅地、行方不明者を探す警察官、乾いた太陽に照らされた瓦礫。すべてが無くなり、以前の姿を想像するのが難しいほどの光景が広がっていた。そのやり切れなさに、突然、私は泣き出しそうになった。
ただ、その光景よりも驚いたことがある。
被災地のなか営業を開始した飲食店に入った。同行者がトイレに行ったとき、私は失礼ながら周囲のお客の会話に耳をそばだてていた。家が全壊し家族を失ったという隣客の会話はAKB48や天気やテレビ番組のことで埋め尽くされていた。もちろん、被災者とて常に津波を話題に生きてはいない。ただ、そのあまりの「普通さ」は私を驚かせた。震災から4ヶ月。平常心へのその戻りように、私は人間の生きる強さと、同時に深い哀しみを見た。
私は、被災地を前に一方的に同情しようとしていた。そればかりか共感しようともしていた。しかし、東京から来た私とはまったく違う強さと哀しみを持つ被災者がいた。その直前まで、被災地のために何かできないかと私は考えていた。ただ、その想い自体が、安全の地に身を置く側の偽善にすぎないのではないかと考えてしまった。
同じような感情を抱いたのは初めてではない。阪神淡路大震災の直後に訪れた神戸。震災の傷跡残る神戸を見て、一生をかけて何かこの地にできないかと考えた。しかし、先日、神戸に出向いたとき、復興の完璧さにその想いも消えていた。そこに何らかの感情や感傷を見つけることは難しかった。やはり、しょせん、かつての自分も、一瞬の同情心を持つ偽善者にすぎないのではないか。少なからぬ額を東北にも神戸にも寄付したにもかかわらず、だ。
ただし、その後、私は偽善についての考えを修正した。思うに、「偽善」とは異常なほど奇妙な言葉だ。善いことをして、良くない、とはありうるのだろうか。表面的であれ、ほんとうの気持ちがどうであれ、善いことをしたのであれば、それは認めるべきではないか。
非被災者は被災者の気持ちを完全に忖度できない。非被災者の援助はときに偽善的かもしれない。ただ、たとえ偽善であっても、表面的な優しさであっても、行動として少しでも被災地を助けられれば、援助するという一点のみで、それは許されるべきだ。これは援助する側の自己肯定といわれるかもしれない。ただ、事実、阪神淡路大震災のときも、無数の援助が復興を支えてきた。そこに偽善の有無を問う意味はない。
私はいくつかの遠回りをしながら一つの結論に辿りついた。東日本大震災はまだ解決していない。
たとえ偽善であれ、被災地以外の人びとは被災地に継続した支援を忘れてはいけない。偽善と思われてもいい、と、私は次の著作の印税を全額寄付することに決めた。