物事の本質の抉り方(坂口孝則)

たいそうなタイトルをつけてみた。「物事の本質の抉り方」である。このメールマガジンの読者で、たとえばBlogを書いている人がいるかもしれない。また、文章を書いてお金をもらいたいと考えている人がいつかもしれない。そのときに他者と差別化するものはなんだろうか。「深い洞察」と「その人にしか言えないもの」を表現することだと私は思う。

Blogや売文でなくても、おそらくすべてのビジネスパーソンで、「物事の本質の抉り方」と無縁な人はいないだろう。いや、もっと大げさにいえば、仕事とは何らかの対象をいかに解釈するかにかかっている。何かがあって、その感想をいうとする。ある人は凡庸な感想しか言えない。しかし、ある人は誰も思いつかなかった感想を述べる。もちろん、他者から「面白い人ですね」と言われるのは後者だ。それに近づくための方法を「物事の本質の抉り方」としてみよう。

何かの対象があったとき、私はその抉り方に三段階があると思っている。たとえば、映画やマンガや小説があったとしよう。

1.表面的なもの、ストーリー
2.その作品の表現者がほんとうに伝えたかったこと
3.その表現者の業(ごう)

まず、1のストーリーの感想をいう段階だ。もちろん、ストーリーすら誤解してしまう人はお話にならない。ただ、通常の人であれば、ストーリーについて、ああだこうだと感想を述べることはできる。しかし、この一段階目で終わってしまっては、とうてい「物事の本質」を抉るとは言い難い。表面的な感想を述べたって「面白い人ですね」とは言われないだろう。

例は映画やマンガや小説とした。たとえば、これが仕事の書類であれば、

1.資料の表面的な意味・数字
2.その資料作成者がほんとうに伝えたかったこと

とせめて二段階にはわけて解釈したい。繰り返しになるが、資料の表面的な意味しかとらえることができなければ、その人は平凡な成果しかあげることができない。優秀なビジネスパーソンとは、表面的な意味や数字にとらわれず、その深層にある意図や背景を嗅ぎとり、そこに本質的な問題解決をもたらす

そこで、今回は増刊号ということもあるから、違った角度から、私流の「物事の本質の抉り方」を説明してみたい。ここで例として取り上げたいのは、映画「インセプション」だ。

あらすじを簡単に言っておこう。

レオナルド・ディカプリオが演じる主人公のドム・コブは、人の夢に入り込むことでアイディアを“盗み取る”特殊な企業スパイだ。彼は妻を亡くし、そのトラウマから逃れるように、仕事にのめりこんでいく。しかし、彼は人の夢に入り込むうちに、妻の亡霊と出会い続ける。映画で、その主人公に新たな仕事が舞い込む。それは、渡辺謙が演じるライバル会社の社長の夢に入り込み、アイディアを“植えつける(インセプション)”することだった。主人公の彼の妻は自殺だったものの、主人公は妻殺害の容疑をかけられ子供に会えなかった。そこで主人公は、妻殺害の容疑を抹消することと引き換えに、その困難な仕事を引き受ける。

そこで、この有名なシーンを紹介したい。映画を見ていない方に説明すると、このシーンでディカプリオは、パリの橋を渡りながら、ある少女に「インセプション」の能力を覚醒させていく。

http://youtu.be/dXsmo4n-ln8

この有名なシーンを有名なままで終わらせてはいけない。なぜ、監督はフランスのパリの橋を渡らせて、このシーンを撮影する必然があったのだろうか。

ここで、1972年の有名なイタリア映画「ラストタンゴ・イン・パリ」を知っているだろうか。巨匠ベルナルド・ベルトリッチ監督の映画だ。これをご覧いただこう。

http://youtu.be/Z3uI08WUbH0

同じ橋である。これは偶然だろうか。いや、偶然ではない。なぜ、「インセプション」の監督はこの「ラストタンゴ・イン・パリ」のパロディとして、自作の印象的なシーンを撮影せざるをえなかったのか。それは、「ラストタンゴ・イン・パリ」の主人公(マーロン・ブランド)もまた、自殺によって妻を亡くしてしまった設定だからだ。

おそらく、「インセプション」の監督のこの意図を知らなければ、映画評は書けないだろうと私は思う。「インセプション」の映画評を見たけれど、「ラストタンゴ・イン・パリ」との関連性を論じているものを、私は知らない。「ラストタンゴ・イン・パリ」では、妻を亡くした代わりに、違う女性との情事によって、その哀しみを消失させようとする。しかし、その関係も長くは続かず、また哀しみの日常に戻る。「インセプション」の主人公もまた、妻を亡くした反動として、仕事に没頭する。肉欲ではなく、仕事欲に昇華させることによって。そして他者の夢という幻想に逃げることによって。

しかし、両者とも、本質的な解決にはならず、妻の死という十字架を背負っていくことになる。つまり監督のテーマは、インセプション(植え込み)ではなく、個人のトラウマと、身近な人の死という根本的に解決不可能な「哀しみ」なのだ。

私は、冒頭で三つの段階をあげた。

1.表面的なもの、ストーリー
2.その作品の表現者がほんとうに伝えたかったこと
3.その表現者の業(ごう)

私の解説が二段階目まで抉り取っているか、そして三段階目まで触れているか、については読者のご判断を待つしかない。しかし、このように、表面的なストーリーだけで終わらせずに、その下の深層に辿りつくような努力を私は止めようとは思わない。

世の中で「コンサルタント」と呼ばれる人たちは、客先からの問題提示により、その解決策を考える。それは思考だけが友人の、孤独な作業である。しかし、もっと孤独な人たちとは、誰も問題とすら認識していないような事象を、さらに意図まで把握しようとする人たちのことである。一見、報われず、いや、何が「報い」かすらもわからないままで、思惟を重ねる人たちのことである。

ただし、きっとその途方もない無報酬な道を歩もうとする先にこそ、「物事の本質の抉り方」があり、「面白い人ですね」と言われるようになる秘訣もあるように思われる。

あなたが抱いている感想は一段階目にすぎない可能性がある。作品でも資料でも、誰かの発言でも、その下層に想いを馳せ、考え続けるのも悪いもんじゃない。そして、その下層を発見するときには、多くの場合、莫大な知識が要る。そのために、私たちは勉強することが必要なのだ。「面白い人ですね」と言われるために。

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