経済とお金儲けの真実(坂口孝則)

・若手を説教する人たち

これまで若手に説教する人たちをたくさん見てきました。「いまどきの若手はなっていない」というセリフは、いつだって常套句です。ただし、私はこのセリフを発する気になれません。というのも、自分が絶対的に正しいという自信を持てないでいるからです。

たとえば、若手説教のうち態度や言葉遣いを指摘するものが少なくありません。よく「最近の若者は言葉遣いがなっていない」という人がいます。しかし、そう言ってしまう人が、かなりおかしな言葉をいってしまう。指摘する前に、自分の襟を正す必要があるのではないか。あくまでも一例ですが、説教をする側だっておかしな言葉遣いをすることがあり、それらをあげてみましょう。

1.読み方の間違い
「一段落」を「ひとだんらく」と読んでしまう人がいます。私は常に心の中で「いちだんらく」だろう、とツっこんでいます。他者に説教擦る前に、このような基本から学んでおくべきなんですけれどね。

2.用語の間違った拡大解釈
あとは、「歴史をひもとくと」と言ってしまうとかね。「歴史書をひもとく」ですよね。紐でしばっているものでなければ「ひもとく」ことはできません。「事実をひもとくと」なんて、何を言っているのかわからないほどです。あとは、「煮詰まってしまった」というフレーズを「行き詰ってしまった」という意味で使う人がいます。正確には「煮詰まってしまう」=「結論が出る形に近づく」ということなんですけれど。

3.用語の意味の誤解
「姑息な奴だ」と言ってしまう人もいますよね。意味が分からない。「姑息」といのは、「その場しのぎ」の意味です。「姑息な手段」を「卑怯な手段」と勘違いしている人がいますけれど、これは「その場しのぎの手段」という意味なので、卑怯ではありません。

まあ、こういうのはいくらでもあります。私は毎日、多くの人と話すたびに「言葉がおかしいな」と感じます。ただ、あえて口に出して指摘することはありません。心の中で思うだけです。私はサザンオールスターズに傾倒しており、桑田佳祐さんの才能には圧倒されています。ただ、名曲『松田の子守唄』のなかの「すべからく恋はいいもの」という歌詞はいただけない。どうも、桑田さんは「すべからく」を「すべて」という意味で使っているようなのですね。でも、「すべからく」に「すべて」の意味はありません。「ぜひ~しなければいけない」という意味です。歌詞が意味をなしていないのです。

こういうことを毎日気にしてしまうのですよね、私は。生まれつきの性格なのでしょうかね。先日も、センター試験の「難易度が上がった」という報道がありました。どっちだよ、と思いました。「難易度」のうち、「難」が上がったのか、「易」が上がったのか。とかね。多くの人はこんな疑問を抱かないのでしょうか。

このような話をすると必ず出る意見があります。「言葉というものは常に移り変わるので、誤用だったとしても問題はないのではないか」というものです。なるほど、私もその意見には半分賛成します。なぜ半分かというと、完全に賛同できないのは「言葉の、そもそもの意味を知らないといけない」と思うからと、文章を売っている人間からすると、そうたやすく誤用を是認する気にはならないのです。

とはいえ、私は世の中の人が誤用していることに、それほど怒りを感じることはありません。私が批判しているのは、若手に対して「言葉遣いがなっとらん」と怒りつつ、自分の言葉遣いも正確ではない人たちです。それは無責任だろう、と私は思います。私は他者の言葉遣いの批判をしません。ただ、若手に説教する人たちの、言葉遣いの不適切さについては、どうしても偽善を感じてしまうのです。若手に少しでも知恵をつけてもらって、説教する「大人たち」をやっつけてほしい(笑)と思うのです。

・ミクロな立場から私たちが逆襲するために

1月25日に「経済とお金儲けの真実」という本を出します。駒沢大学の飯田泰之先生との共著です。1月26日からアマゾンキャンペーンもやることになりました。ちなみに、アマゾンキャンペーンのページはここです。ですので、お買い上げいただけるのであれば、ちょっとお待ちいただくほうがよいのかもしれません。

特典は「飯田泰之の作り方(pdf)」「坂口孝則の作り方(pdf)」「飯田泰之vs坂口孝則~絶対に儲かる投資法(音声ファイル)」の三つになる予定です。ぜひお愉しみになってください。

他者に何かを説教してしまうくせに、自分自身はたいしたことがない。これを私は偽善と呼びます。では、教養を身につけ、(他者に説教を繰り返すのではなく、そんな時間があるのであれば)自分自身を変えて、生活を改善するためにはどうすればよいか。収入もあげて、自由な時間を確保しつつ、好きなことをやるためにはどうすればよいか。飯田泰之先生も私も、世の中の偽善を忌避しつつ、具体的で現実的な処方箋を考えてきました。

二人ともまだ30代なので、世の中の「大人たち」から批判されたこともあります。足を引っ張る人だっていました。でも、その大人たちの偽善を見透かし、その批判者たちを超える施策をいくつも練ってきました。私は言葉遣いを冒頭で書きましたが、それはあくまで一例です。他者を批判する人たちをもとに考えてみたかったのは、「批判する人だって完璧じゃないんだから、批判するくらいなら、もっと他のところにエネルギーを使おうぜ」ということでした。「経済とお金儲けの真実」では、若きビジネスマンが明日から使えるノウハウや思考法をたっぷりと盛り込みました。

「はじめに」だけ載せておきますね。26日からのアマゾンキャンペーンをお愉しみに! 26日になったら、アマゾンで買っていただければ特典をお渡しできるはずです。では、よろしくお願いします。

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はじめに──今こそ本当に必要な経済とビジネスの話をしよう

 ビジネス書の世界では、「これを実践すれば、あなたも大金持ちになれる」という励ましをくれる成功法則や自己啓発を説く本がもてはやされています。しかし、多くの人にとっては「こんなこと実践できるわけがない」という夢物語であったり、「実際それに従ってみても、結局うまくいかなかった」という苦い経験に終わることがほとんどでしょう。

 成功本や自己啓発本は、元気をもらってテンションを上げていくうえでは、確かに良い効果をもたらしてくれます。でも、それはドリンク剤と同じで、あくまで一時的な効果を持つにすぎません。

 一方、経済書の世界で語られるのは世界経済の動向や経済政策の話です。これらは確かに重要ではありますが、あまりにも個人の経済生活とかけ離れすぎていて、その効能がわからないかもしれません。そのため、経済書は容易に知的遊戯の本に転落してしまいます。

 また、近年話題にのぼることの多かった格差問題への言及についても同様です。「格差本」の多くが、実は書き手のパッションとはまったく異なるかたちで消費されてしまったようにさえ思えます。

 たとえば職や住居がない、生活をするに足る職を得られない、ブラック企業に勤めているといった人々の実態を「他人の不幸」として読んで、「こんなにかわいそうな人がいるんだから、自分のほうはまだマシだ」という受容です。「かわいそう」という感情もこのような他人事としての情報という側面が強いように感じます。ここでは真剣な思考と告発が、多少ひいき目に見ても、鎮静剤になってしまっているのです。

 このように、ビジネスや経済に関する本というと、庶民感覚から離れた大金持ちによる自慢話や知的遊戯に興奮することでアッパー系になろうというもの、あるいは底辺社会でサバイバルを強いられている人々の苦労話を聞いてダウナーになろうという両極端になりがちだったように感じます。

 もちろん、本当に大金持ちやスーパーエリートになれる方法は誰でも知りたいところではあります。あるいは、底辺で苦しんでいる人々の問題こそが、政策レベルではいちばん注目を浴びなければいけないということも間違いありません。

 しかし、良きにつけ悪しきにつけ、そのどちらも現在の日本に生きる大多数の人たち自身の生活にとっては、あまり縁のない話と感じられるのも無理ないでしょう。結局のところ、そうした両極端のケースは、一時的な発奮や安心の材料になりがちだということには、もう多くの人が気がついていると思います。

 であるとすれば、そろそろ普通の人が普通に生きていくための経済論や商売の方法論を、私たちは地道に考えていくべきなのではないでしょうか。

 それから、こうした成功本・自己啓発本と格差本の両極端のほかに、「お金」と「幸福」をめぐる両極端の考え方についても、適切な中間点を見つけていくことが重要でしょう。お金を儲けることだけが幸せだと考える拝金主義が正しいか、あるいはお金と幸せはまったく関係ないと考えるような清貧思想が正しいかといったような不毛な対立は、頭の外に追いやってしまわなければなりません。

 常識的に考えて、十分なお金があるからというだけでは、その人が主観的に幸せに思っているかどうかは微妙でしょう。しかし、もし最低限の暮らしができるだけのお金もない場合、その人が不幸せに感じているであろうことは、まず間違いない。つまり、お金があって、ある程度の生活ができることは、「幸せ」の必要条件ではありますが、十分条件ではないという程度の話にすぎません。

 日本には、お金を稼ぐことについて公然と話すことが、どこか恥ずかしいことのように思われる風潮があります。そのため、なかなか普通の人による普通の人のための経済とマネーの話が流通しない。

 お金にかかわる営みと無縁で生活をしていける人はいません。本書ではお金と幸福を二項対立的なものとして考える極端な立場には立たず、普通の人が普通に考えた場合の自然な判断の中で、お金にまつわる事柄を語っていきたいと思います。

 さらに、もう1つ乗り越えなければならない両極端があります。それは、ミクロな「商売」とマクロな「経済」の二元論です。

 商売(business)というのは、個人や企業が市場で競争しながらいかに稼いでいくかという方法論のことです。対して、経済(economy)というのは、そのもともとの語源がギリシャ語ならば「家庭や共同体の秩序」を意味するオイコノミア、漢語ならば「世を治めて民を救う」という意味の経世済民の略でもあるように、社会全体がうまくいくように回していく統治法のことです。つまり、どちらもお金にまつわる現象を扱う営みでありながら、まったく視点や立場が違います。

 そのため、それぞれ完全にお互いを無視した無関係な専門領域の中だけで語られるか、あるいはどちらか片方のことしかわかっていないにもかかわらず、論者が無理解な混同をしたために頓珍漢な説が流布されるという、不幸な語られ方をすることが少なくありませんでした。

 たとえば、かつて構造改革を掲げた小泉政権の下、それを個人や企業の商売努力の良し悪しの問題であるかのように転嫁する過剰な自己責任論が流行しました。景気の悪化、長期的な経済成長の停滞というマクロの問題がミクロの問題に転化されてしまったのです。その一方で、農業や最低賃金など、個々の産業内でのプレイヤーが市場における努力で解決すべき問題を国による規制などに求めようとしてますます歪みを生んでしまう。ミクロとマクロの混同が政策レベルで弊害をもたらしたケースだと言えるでしょう。

 ですから、日本の経済環境がますます危機的な状況に向かっている中、やはり私たちが普通に暮らしていくための判断基準を持つうえでも、商売と経済がどういう関係にあるかを適切に把握することは、いよいよ重要になってきています。私たち自身が生き残っていくために、まずはビジネスマンとして自分たちの商売を成り立たせていくためのミクロなノウハウや心得といった身の丈まわりのことが必要です。

 そして、同時にマクロな統計や理論で説明される経済全体のこともある程度は理解しておかなければ、どこまでが自分の努力の範囲内で、どこからが有権者として政府に求めるべき領域なのかが、わからなくなります。そこを見誤ると、ことによっては有権者として良かれと思った判断が、生活者としての自分たちの首をしめる結果につながることにもなりかねないのです。 アッパー系とダウナー系、スーパーリッチと貧困、ミクロとマクロ。3つの両極端に陥らない、バランスのとれた商売・経済論が必要である――それが筆者2人の共通した願いです。 飯田泰之は、マクロ経済学の研究者として研究と教育にいそしむかたわら、商売の現場に対して学者が有効な発信をできないことに常々苛立ちを感じている。対して現役のコンサルタント、バイヤーとして活躍する坂口孝則は、さまざまな業界でビジネスの現場に携わりながら、実務の論理だけでは見えてこない経済全体の大きな動向を意識する必要性を日々痛感してきていたからです。

 このように、お互いそれぞれ「経済」と「商売」に立脚する立場から意気投合し、現在の日本経済とその中で生きる人々の商売にまつわるさまざまな問題をめぐって、時に本質的な、時に実践的な対話を積み重ねていったのが、本書です。

 そのプロセスと結論は、決して「明日から役立つ」といったタイプのものではないかもしれません。しかし、成功本や格差本のような一過性の刺激とは異なる、誤った願望や思い込みを正して、長い目で見れば本当の意味での実力につながる思考が展開されていることは、保証します。

 この対談が、多くの人々の目から鱗を落とし、日本人のお金をめぐる議論に、少しでも成熟を加えていければ幸いです。

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