逆転経済の到来(坂口孝則)
・逆転経済のはじまり
先週の26日に私の新刊「1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体~デフレ社会究極のサバイバル術(幻冬舎)」が出ました。これ、自慢ではありませんが、私の本のなかでももっとも面白いものだと思います(やっぱり自慢か)。調達・購買の観点も外していませんし、なにより「逆転経済の到来」についてこの世ではじめて述べたものだからです。
では、逆転経済とは?
先般より、調達・購買・資材の関係者と話していて、大きな変化が起きていることに気づきました。「コスト削減」のレベルが異なっているのです。これまでは、経営層からコスト削減を求められるといっても数%、せいぜい10%程度のものでした。しかし、年を経るごとに、それどころではなくなってきている。いまでは、「昨年の20%削減を目指せ!」という掛け声も珍しくありません。
これまでの単純なネゴ、あるいはVA/VEでも良いのですが、それらで達成できるコスト削減は数%でしかありません。ソーシングによりサプライヤーを変更したとしても、それだけで目標のコスト削減率に達することは稀です。
そこで、各調達・購買・資材部門はサプライヤーに対して、一時金を要求することが多くなりました。「今年は、○○億円の調達が見込まれるので、○○百万円くらいは一時金としてバックせよ」というわけですね。読者のなかにも毎期のコスト削減はつらい仕事だと思っている人はたくさんいるでしょうが、そのつらい仕事は年々激しさを増しているはずです。
では、なぜ経営層がそれほどまでにコスト削減を調達・購買・資材部門に要求するのでしょうか。簡単にいえば、「モノが売れなくなってきたから」ですよね。これまででしたら、製品をサプライヤー(仕入先と呼んでもいいでしょう)から買ってきて、それを加工してお客に販売していた。
しかし、お客がそれに見合う対価を支払ってくれなくなったわけです。ほんとうは100円の価値があるものであっても、100円を支払いたくない。お客のそのような態度には追従するしかありません。
そうなると、企業としてはどのような行動になるでしょうか。もちろん、さきほど見たようにサプライヤー(仕入先)に支払う対価を削減するしかないわけです。
これは劇的な変化だ、と私は思います。お客が本来の価値を認めないからです。私は「お客がそれに見合う対価を支払ってくれなくなったわけです。ほんとうは100円の価値があるものであっても、100円を支払いたくない」と書きました。たとえば、サプライヤー(仕入先)から100円で部品を買ってきたとします。それを右から左に流したとしても、100円を割ることは通常できません。しかし、それに100円という価値をお客は認めてくれないわけです。たとえば90円程度しか認めてくれない。すると、その差額の10円はサプライヤー(仕入先)に求めるしかありません。この状況が示しているのは、「利益源」が根本的に変わろうとしていることです。
ただ、これであれば「サプライヤー哀歌」として終わってしまいます。面白いのは、このような経済構造において「利益源をサプライヤーに求める流れがどこまで続くのか」ということです。企業はサプライヤーに利益源を求める。そのサプライヤーはさらに下のサプライヤーに利益源を求める。行き着くところはどこでしょうか。
もちろん、それは「材料」と「労働者」になります。ただし、このメールマガジンでも見てきたとおり、材料は市場高騰のなかで利益源とすることが難しい。材料(や資源・エネルギーなど)は入手することも困難で、対価支払いを渋っていれば、自社の生産自体もできません。そこで、残るのは「労働者」です。
労働者は必然的にオーバーアチーブを求められることになります。オーバーアチーブとは、価値に応じた給料をもらえないことです。もちろん、これまででもオーバーアチーブは労働の本質でした。20万円の給料をもらおうと思えば30万円以上の価値のある労働をせねばなりません。しかし、私が申し上げたいのは、そのオーバーアチーブの比率が大変高まっていかざるをえないということです。お客からお金をもらえない以上、労働者にしわ寄せがくるしかありません。
そうすると、ここで奇妙なことに気づきます。そもそも100円の価値のものを90円で手に入れていた「お客」とは、一人ひとりの「労働者」にほかならないからです。「お客」は安価に商品を手に入れていたと思いきや、同時に「労働者」の側面も持っているわけで、オーバーアチーブという形で実はしっかりとこの経済構造のなかで篭絡される存在であったというわけです。
お金の流れが逆転して、その消費者(=「お客」)が消費において享受したメリットを、労働者としてしわ寄せを被る構造。これを「逆転経済」と呼びます。これは近年の根本的な経済構造の変化です。
さらにこれは歴史的にも興味深い事実を示しています。
かつて、「生産者」と「消費者」とは同一人物でした。歴史を振り返れば、自給自足が続きました。自分が食べるものは、自分で生産する。これは農業が中心となっていた世界では当然でした。その時代は、「生産者」=「消費者」だったわけです。
次の時代は、「生産者」と「消費者」が分離されました。工場労働者という職業が「発明」され、生産者は生産者として、自分以外の誰かにモノを生産する時代になったわけです。近代教育には「ドリル」というものがあります。計算問題をひたすら解き続けるアレです。あのドリルとは、子供たちを、規則通りに動き、規定された行動ができるようになるという、すなわち「工場労働者養成」のためのものだったことは多くの教育研究家が明らかにした通りです。その時代は、「生産者」≠「消費者」になりました。
しかし、近年の「逆転経済」が到来した社会においては、「生産者」と「消費者」が奇妙な一致を見せ始めています。それは、さきほど説明したとおり、お金の逆転構造のなかでメリットの享受とデメリットの享受が同じ主体になってしまったというものです。
詳しくは、「1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体~デフレ社会究極のサバイバル術(幻冬舎)」に譲ります。ただ、私はこれを「労働消費者の誕生」と呼んでいます。すなわち、お客(すなわち私一人ひとりのことです)は、もうほしいモノなんてありません。だからお金は使わない。それがまわりまわって逆転経済という、デフレ経済を超越する構造を創りだしてしまったのです。
さて、この逆転経済のなかで私たちはどうすればよいのでしょうか。いくつかの処方箋はあります。た だその処方箋は絶対的なものではありません。私の考えは本に書きました。このメルマガでも書いていきたいと思います。
ただ、一つの変化はお伝えしたいと思うのです。この逆転経済という恐るべき、そして見方を変えれば新時代を指し示す変化を。