営業マンに接するということ(坂口孝則)
先週、いくつもの取材を受けました。あげてみましょう。
日刊ゲンダイから「どうやったら夫のお小遣いをあげることができるのか」。週刊誌FLASHから「なぜ楽天ではマイナーなカップラーメンが売れるのか」。月刊宝島から「激安商品のカラクリ」。宝島ムックから「電子書籍は儲かるのか?」。共同通信から「書籍をPDF化して保存するメリットとデメリットとは?」。あ、朝日新聞の方もいらっしゃったな。共同通信のものは、私が週刊ダイヤモンドで話した内容をベースとしたものでした(週刊ダイヤモンド 2010年10月16日号 電子書籍入門)。
これらの取材を受けていてわかることがあります。それは取材者も、常に被取材者だということです。
やや残酷な言い方ですけれど、同じプロのなかでも、ついついこちらが不用意なことまでしゃべってしまうほど「引き出してくれる人」もいます。いっぽうで、こちらが話しにくい雰囲気しか作れない人もいます。
固有名詞は省きますけれど、私は以前、某誌で「ひどすぎる取材側の実態」を書いたことがあります。某社の取材者は大変ひどく、インタビューされるに耐えなかったという事実を書いたものです。そのとき、私が書いた対象者からの批判はすごいものがありました。「ルール違反だ」というのですよ。取材を受ける側は、取材する側について書いてはいけないといわんばかりの批判でした。
私は「それは違う」と思います。
むしろ取材する側は、自分自身が書かれることに無自覚すぎます。取材をするとは、取材されるということと同義です。何かを評価するとは、その行為を通じて他者から評価されることです。例えば、私が何らかの書籍を批評するとします。そのとき、私はその批評を通じて、私も評価されるという覚悟なしにはできません。
それは上司と部下の関係でも同じでしょう。上司は部下を評価します。しかし同時に、その評価というプロセスを通じて、上司はたしかに部下や周囲に評価されることになります。
私は以前から、著作を持つ人と話す際には、最低限のルールとして「その人の本をすべて読んで臨む」ことにしていました。そうすると、理解が違うのですよ。その人がすでに本に書いていることを質問することはなくなります。
本に書かれていることを再度質問してしまうのと、本に書かれていることをより深く質問することと、どちらが会話が進むかは考えるまでもないでしょう。
私は最近、営業する側と話す機会が多い。そのときに出てくるのが、調達・購買担当者側のひどさです。これは調達・購買側にだけ居たら聞くことができない内容です。「まったく営業マンの名前を覚えない」「時間に遅れる」「製品のことを勉強していない」「仕事をすべて他人にやらせようとする」。
いやそんなことは以前から言われている。そうおっしゃる人も多いでしょう。しかし、いまだにそんなことを思われている以上、自戒の意味も兼ねてあらためて記しておきました。
調達・購買部門は、常にサプライヤーを評価するという立場に安住しがちです。安穏としているのですよね。でも、評価するということは、そのまま評価されることにつながっていることを失念してはいけない。そう思うのです。
調達・購買部門とは、モノを作ることもできない、モノを設計することもできない、モノを売ることもできない、特殊な立場にいます。そのとき、ほんとうに外部の力と内部の力を融合させ、シナジーを生むことを目指すのであれば、することは自明でしょう。サービス業として生まれ変わることです。モノを買うのではなく、サプライヤーの発意に対価を支払うという意味で仕事を読み替える。製品を調達するのではなく、サプライヤーに事業機会を「販売する」という意味で読み替える。
取材者が常に被取材者になるように。買い手と売り手は逆転する。評価者は被評価側になる。その自覚が個人の行動指針につながっていくのではないかと信じる私でした。