イタリアの教会にて

クリストの前で、ずっと跪いて祈りながら、ただひたすらに、数珠を哀しみの顔で愛撫しつづける男性がいた。

もちろん、何を考えているのか、何に悩んでいるかは知らない。きっと、私も彼にとっては通りすがりの旅行者にすぎない。

ただ、愛撫の無意味さが、いや、無意味ゆえに彼を救うように感じられた。無意味の意味という倒錯。きっと、神という存在を盲信することが、安堵と桎梏を乗り越える力になるに違いない。

神と人間の完全なる分離。そこには、アジアのアニミズムなどかけらもない。

ところで、神は忘却と赦しを勧める。私にあんな仕打ちをした人、私を裏切った人、私を利用してずたずたにした人。神は、彼らを赦せと伝える。

しかし、私たちは、なぜあえて赦すほど「弱い」のだろうか。せめて、殴り返す、あるいは、無視するくらいは「強く」なれないだろうか。

隣の祈祷者は滂沱の涙を流していた。

人を赦すこと、自分の不運を赦すことは、きっと、つらくて、哀しくて、難しい。

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