CD評 松井花枝さん「プレイズ バッハ、シューベルト、シューマン、ドビュッシー」
・ミエチスラフ・ホルショフスキーの衝撃
突然だが、ミエチスラフ・ホルショフスキーの衝撃について触れておきたい。1892年生まれのピアノストで、日本ではほぼ無名の存在かもしれない。ポーランドに生まれ、そして100歳になるまで、現役のピアニストを続けた。ショパンとモーツァルトを弾き、そして、各会場を異常な熱気で包んだ。
私のホルショフスキーとの出会いは、自慢できるものではない。アップルミュージックで他の何かを検索していたときに、偶然その名前に出会い、ダウンロードしたにすぎない。しかし、その圧倒的すぎる演奏に触れ、大げさにいえば、私は籠絡されたのだった。
その後、高名な音楽評論家である石井宏さんがご著書でホルショフスキーに言及なさっているのを知った。石井さんの文章は感動的で、ホルショフスキーが95歳のときに日本公演をしたエピソードがみずみずしく書かれている。
<人はみな異常な感動に包まれており、いま目の前で起きたことが信じられないといった顔をしていた。ピアノがあのような音を立て、あのような世界を作り出すということが信じられないのである。ピアニストの宮沢明子さんの顔が、涙でくしゃくしゃになっていたのも忘れられないが、日本のモーツァルト演奏の第一人者とされる小林道夫さんの言葉も私には忘れられない。
「あれを聴いていると、人間五十歳なんてまだ洟垂れ小僧のような気がしてきました。あのピアノが、道夫や、いいかい、モーツァルトはこうやって弾くんだよ、と語ってくれているような気がしました……」(石井宏さん「帝王から音楽マフィアまで」学研M文庫)>
私は音楽がひとや、人生を変えるというとき、つねにこの文章を思い出す。
・松井花枝さん「プレイズ バッハ、シューベルト、シューマン、ドビュッシー」
松井花枝さんのCD「プレイズ バッハ、シューベルト、シューマン、ドビュッシー」を聴いた。簡単にいうと、このCDは感動的な作品である。
ただこの場は、細かな技法や、音色について、仔細を述べるものではない。この記事を、だいたい1万人くらいのひとが読んでくれると思う。これはけっして、音楽評ではない。CD評を通じた私の「自分語り」になっている。
たとえば、同CDに入っている「シューベルト 即興曲 変ト短長調作品90-3」を聴いてみよう。これはかつて時代に生きたひとたちの黄昏と悲哀を描いている傑作だ。やさしく、そして、はかない。
私たちはクラシック音楽がうまれた200年前に生きてはいない。ただ、その200年前でも、生きる者たちの黄昏や悲哀はさほど変わるものではない。
理想に向かって生きながらも、自分の情けなさを知り、かつ、自分が大したやつではないとわかりながらも、「自分自分を肯定できる」ようになってからこそ、人はゆっくりと老いることができる。私には、「シューベルト 即興曲 変ト短長調作品90-3」がそのようなメッセージをもっているとしか考えられない。
また、同CDに入っている「シューマン アラベスク ハ短調作品18」はどうだろうか。
アラベスクとは、壁の装飾を意味する。そして、華やかさをも意味する。そして、華やかさとは、人生の裏側をも同時に感じさせる。「シューマン アラベスク ハ短調作品18」は人生の華やかさに注意をむける。そして、華やかさを感じるとともに、華やかではない自らの人生をも感じることとセットとなっている。
そしてもっといえば、輝きだけではなく、二面性や、哀しみを感じさせてくれない演奏には、私は意義を感じられない。
音楽を聴くとき、ひとはしばし、人生そのものを感じる。音楽の流れのなかから、これまでの人生と、そして、流れ行く意識に思いを馳せずにいれない。「シューマン アラベスク ハ短調作品18」は、愛や激情を伴って私たちをいざない、苦悩と絶望と怒りをも伴い奔流し、最後にはこれまでの人生を忘却してもなお、その彼岸に想いを示してくれる。
・「版画」で終わる意味
この傑作のCDが「ドビュッシー 版画」で終わるのは示唆深い。
版画--。版画とは、あるときを切り取る。そして、切り取られた者の現実は、そこから老いていく。ただし、版画はインクを塗られることによって、ふたたび、ある一点の姿を表現していく。この「版画」が音楽における「演奏」の暗喩であるのはいうまでもない。
「版画」、あるいは「楽譜」は変わらない。しかし、演奏家や聴衆は、たゆまなく人生と時代のなかで変わり続ける。みずみずしい感覚をもった演奏家が誕生し、そして、新たな聴衆が生まれる。
しかし、朽ちていく者と、芽ぶいていく者。この混じり合うのが芸術だと認めることこそ、それは生きるという意味を再確認することでもある。このCDのピアニストの名前を使えば、枯れゆく花も、たしかに「花」であるし、可憐に咲いていく花だけが「花」ではない。それを知ることこそ、人生の成熟、ということではないのか。
この感動的な演奏で出会っているのは、もしかすると、過去の思い出かもしれない。いや、もっといってしまえば、私たちが感動するとき、それは過去の思い出と出会ったときなのかもしれない。
あのとき、あのひとについ言ってしまった言葉。大切なひとなのに助けてあげられなかったこと。多忙を言い訳にお見舞いに行けずに、そのまま会えなくなったこと。あのとき冷たくしてしまったこと。裏切り、そして裏切ったこと。
おそらく、誰にだって一つや二つそんな後悔はあるだろう。
そんな思い出が、人生には一つひとつ積み重なっていって、そして、なぜだか聴いてしまった演奏が涙をもたらす。まさに、それは人生の「版画」と呼ぶにふさわしい。
・「版画」のもう一つの意味
さらに深読みをお許しいただけるのであれば、演者には「版画」について、もう一つの意味があるように思われる。
版画とは何かを切り取った現実である。これを心理学的に読み解けば、両親。さらに、フロイト的に読み解けば、母親、ということになるだろう。
私は冒頭でホルショフスキーの演奏を紹介し、さらに「いいかい、モーツァルトはこうやって弾くんだよ」と諭した「父親像」について言及した。演奏家にとって、師であり、そして教師である”親”からいかに逃れるかが一つのテーマとなりうる。
「どのように演奏すべき」「どう弾いたほうがいい」。そして、もっといえば「どう生きるべきか」という命題であってすら、型が明確なクラシック音楽演奏家は、なんらかの桎梏を感じて生きざるを得ない。まさに、それは「版画」として、一人の音楽家にのしかかる。
この「版画」は「Jordins sous la pluie」のテーマでおわる。これは日本語では「雨の庭」と訳される。わたしは、この「Jordins」とは庭ではなく、園(その)と訳されるべきだろうと思っている。果物がたわわに実る場所。そこでは、才能と両親からの恵みが詰まり、ある意味での、人生の方向性が示されている。さらに、理想が写されている。と同時に、それは一人の個人にとって、規定されすぎた「哀しみ」でもある。それがまさに「雨」にほかならない。クリスト教文化に造詣が深いひとであれば、こお「雨」に、神々の恵みを感じるだけではなく、同時に、哀しみをも感じ取るだろう。
つまり、このCDは、演者にとって大きすぎる両親への哀歌であって、同時に決別歌であることになる。いや、決別歌であらざるをえない。本人が意識しているかしていないかは、問題ではない。そう解釈せざるをえない、だけだ。
このCD「プレイズ バッハ、シューベルト、シューマン、ドビュッシー」では、この楽曲のなかで、「版画」は唯一といってもいいくらい、自由な演奏であるのは興味深い(これは最後に収録されているためでもあるだろう)。
クラシック音楽とは、生命が熟し、さらに、その停滞である美しさを感じるとともに、さらにそのあとにやってくる凋落をも味わい尽くす態度に支援されている。クラシック音楽とは、現状の喜びだけではなく、その後の哀愁すら伴走することによって、喜びを尽くすことができる。
それは私たちがクラシックを味わう態度とも近いのかもしれない。
私たちは、ただただ愛されることを求める時代、そして、たんなる成功を夢見た自閉、感傷的すぎる孤高からはじまり、柔らかな季節に舞い入った。それは、ただただ歓喜を求めるのではなく、熟する喜びでもある。
「版画」ーー、は、聴く者たちの成熟を求めている。