バイヤーはいつだってドラマツルギィ

「会いにきちゃったよ」

昔仕事を一緒にしていた人と、笑顔で再会するのは誰だって嫌なことじゃない。

そのバイヤーは、そのとき首都圏からやや外れたところに出張に来ていた。

何をしに来ていたか。サプライヤー工場の工程調査と、価格の交渉だった。

朝10時から工場に入る。そして、1点1点確認し、メモし、そのあと工場の片隅の会議室に入って、営業マンと価格の打ち合わせを繰り返す。

昼食をはさむ、そして夕食をはさむ。

とても終わる数じゃない。複合品だったから、時間はあってもあっても足らない。

しかし、そのバイヤーはあきらめない。「せめて、日が変わるまではやりましょうか?」と営業マンに言って、営業マンは微笑しながらため息をつく。

そんなとき。

会議室に鳴る電話のベルの音。

営業マンは電話をとる。すると怪訝な顔をしながら、バイヤーの方を振り向く。「よくわかりませんけどねえ。お電話をつないでほしいそうですよ」。

バイヤーは驚く。なぜ出張先のサプライヤー会議室にいる自分に電話がかかってくるのか?

電話をとったバイヤーはさらに驚く。

「彼」だ。

「いやあ、久しぶり。こっちに来ていたんだってね。そこの会社から聞いたよ。懐かしいなあ。どうですか、今から食事でも」

その勢いにバイヤーは、断ることもできない。すると、10分後に「彼」は車で到着し、バイヤーに一言笑いながらいう。

「会いにきちゃったよ」

・・・・

そのバイヤーは私だった。

「彼」とは、そのサプライヤーの親会社の役員。

なぜ、私は「彼」を知っていたのか。

それは、彼がその会社の役員になる前--、彼が転職という名の給料アップを成功させる前に--、バイヤーと営業マンという間柄だったからだった。

彼(と、もう「」抜きで書いているが)は、その当時から、熱くて、誰よりも思い込みが激しくて、誰よりも営業センスが良くて、好みが激しくて、それでいて憎めないような、そんな人だった。

「こういう品質証明書類出してよ」と私。

「そんな書類なくっても、大丈夫だって」と彼。

「いや、そんな問題じゃないよ」

「間違いないって。信じてよ、俺を」

と良く分からない理論と魅力で人を信じさせる、まるめこむ。ようなそんな営業マンだった。

当時、確か営業部長(次長?)か何かの役職についていた彼が、「中規模の会社だけど、転職することにしたよ」と私に告げたのは、出会ってから2年後のことだったっけ。

彼との思い出だけで、おそらく本1冊くらいかけるが、まあそれは良いとしよう。

彼と出会って、私は多くの失敗をした。手痛いコスト削減失敗も繰り返した。

しかし、私は、なぜだか彼を信頼してしまった。そして、取引を拡大させた。これは事実。

2社のうち、どちらかを迷ったら、もちろん定量的なデータも使うけれど、なぜだか彼の方にしてしまった。これも事実。

そして、彼との最後の仕事では、見事にこれまでの失敗を挽回するかのように、超大幅なコスト低減を成し遂げた。

なぜだか私の調達業務も彼のおかげで愉しくなった気がしている。

・・・・

調達はセックスに似ている。

それは経験したことのない者に本当の姿を教えることは出来ない。教えようとする試み自体が、どこか空疎で意味を喪失したことのように感じられる。

いや、そのようなことだけではない。

その類似点とは、むしろ非合理性にあるのではないか。これほど合理的行為に見えて、非合理的なことはない。

例えば、サプライヤーの決定。定量的なデータを元に決定しているかのように振舞っている。しかし、そのデータをいかに使うかは全く恣意的なものであり、最後は「ここと仕事をしてみたい」という賭けのような感情が支配している。

これまで自分がなしてきた成果のうち、どれほどが合理的な判断に基づいているというのか。不合理で、説明のつかないまま、いわば直感の正しさを信じて動物的に目の前の対象とぶつかる。

しかも、他人(他社)がどのような調達をしているかは実際のところ、よく分からない。自分がやっていることがそもそも正しいのか--。

いや、正しさの基準など誰が決めるのか。

その瞬間は「人生最大の過ちだった」と後悔してしまうようなものが、時間とともに人生の糧になってくれることもある。

種が実を結び、そのうち自分自身を楽しませてくれる果実が出来上がる。

・・・・

よく考えれば、これまで自分を支配していたのは偶然であり、その偶然の中から次の人生を開くきっかけがあった。

もちろん、私は調達基準を「偶然に任せよ」という暴論を吐くつもりはない。

しかし、である。

サプライヤー間の価格も品質も技術力もほぼ同じ。それでも、どのサプライヤーに発注するのか、という何らかの結論をつける必要がある。

しかも、その互角の戦いの中で勝敗を決めるという、無謀にも近い決定を迫られるときは年に一度や二度ではない。

バイヤーによっては、日々そのような決定を下さねばならない人だっている。

そのときは、逆説的に感じるかもしれないが、「ここを信じてみたい」という賭けにも似た直感のような思い込みが必要とされる。

それはQCD評価表にも出てこない、それでいて重要な要素。

これは、バイヤーとサプライヤーの癒着だろうか。それとも、定量的尺度を捨てたバイヤーの業務放棄だろうか。

酒に酔い、笑顔にあふれた彼が昔話を語ってくれている目の前で、私はそんなことを考えていた。

「バイヤーは、非合理の中を泳ぎぬけ!!」

 

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